第 二 章(4)廃園話しから一転「新園舎」建設・続いて高校校舎増築

ある日、突然、下田理事から都の指導で幼稚園を廃止することになると通告された。都の学事部に出かけて事情がわかった。丸山時代の安普請のバラックが設置基準に合わないので、期限を切って改善策を示さなければ廃園にせざるを得ないと言う。下田はこの条件に触れずに、都から廃園の指導があったとだけ大学理事会に報告したのである。

数日後、大学の財務担当理事である神立時三郎が、早朝千葉県柏市の自宅を出、中央線三鷹駅から6キロの道を歩いてまだ誰も出勤していない盈進幼稚園を視察していった。大学の公用車を当然のように乗り回している理事らの多い中で、ただ一人電車と徒歩で大学に来ていた理事である。「暮らしの手帖」の花森安治は、戦前と戦後の社会の決定的な違いは戦後の公私混同だと述べていたが、このとき70歳の神立は、典型的な戦前派だったと言って良い。

数日後、大西が大学理事会の決定で幼稚園の園舎を新築すると伝えてきた。神立が動いたのである。RC造2階建ての新園舎が完成、水洗トイレ、手洗い場、新しい遊具に至るまで設置基準に沿っての建築だった。園児の緊急避難用に、2階の廊下の端から園庭まで滑り台が設置されているのに驚く。当時、武蔵野市で最も進んだモダンな幼稚園になった効果は大きく、園児数も着実に増えていった。

神立理事へのお礼の挨拶に大学を訪ねた。
「施設を建てるなど、金さえ出せば良いのだから何でもない。それより、教育の中身が大切なのだ。」と当然のことを言われた。ごく当たり前のコメントである。施設への投資を嫌い荒れ放題になった校舎を経験していた丸山時代の後遺症はそう簡単には治らないものだと、改めて思い知らされた。

大学付属になってからの順調な募集活動の推移を見て、理事会は体育館の整備と新校舎の増設に着手した。新校舎は、ガラスを多用したひたすら明るいRC造の建物で、従来の校舎に並行して間に中庭を挟むように建設された。1階は廊下の両側に南向きの明るい教員室と北向きではあるがガラス張りでやはり明るい食堂である。体育館は床をすべて貼りかえ、本格的な器械体操の器具を備えた。披露の式典では、体育科の教員溝口が並行棒の演技を鮮やかに決めて、喝采を浴びた。何事にも張り合いの持てる、楽しい時期だったと思う。
丸山時代の暗い荒れた校舎が嘘のような変わりようである。教員にとって大切なのは教育現場であり、生徒が喜び快適に過ごせる施設環境の整備はこの上なくうれしいことだった。大学にとっても、それは、使えば消えてしまう経費とは違って資産になる。学校としてあるべき金の使い方である。
施設の改善は教職員、生徒を喜ばすいわば飴でもあるが、といって低賃金の押し付けが正当化されることにはならない。組合では、目標の達成前にまだまだ幾つもの壁があると覚悟していた。

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