第 二 章(3)学生急増の波に乗る発展途上大学

東京都板橋区の高島平に創設時の本部を置き、学生の急増で天から降ってきた学費を資金にして埼玉県東松山市に教養学部を建設、広大な北海道の原野を手当てするなど、バブル時の地方自治体同様に、大学理事会は土地と箱物に投資を集中、盈進学園の買収もその一環だった。中国の研究と中国語教育を目的とする第二次大戦中の国策専門学校が敗戦後四年制の大学となったので、中国語の重鎮香坂が学長を勤めていた。中国語教育に優れているとはいえまだ大学としての歴史は浅い。学内の組織・運営も未整備で、給与体系もない。典型的な発展途上大学であった。

理事長の金子昇が視察に来た。体格がよく、半白の髪をうしろに撫で付け八の字髭をたくわえて一見壮士風である。大言壮語が好きで、事あるごとに「大東文化大学の誇りを持って・・・」と訓示したがる。それが、団交で組合からの賃金大幅アップの要求に際して他大学との給与の比較を数字で示されると、たちまち豹変する。
「他の大学と比べるわけにはいかない。ほかがレストランだとすると、ここは、まあ、板橋駅前のラーメン屋なんだよ。」と、あっさり誇りを捨ててしまうのである。信じがたい柔軟性の持ち主だった。実務は周囲に任せ、周囲も根は好人物の彼を理事長として威張らせておいたというのが実態だったと思われる。

付属から大学に優先入学できるのがものを言って、高校の募集は順調に推移していたが、幼稚園は送迎バスで募集地域を広げても園児の確保は難しかった。

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