第 一 章(1)高校生急増期の異様な光景

教育環境の悪化が始まったのは、1960年代後半ベビー・ブームの波がきた高校生の急増期である。この波に乗ろうと丸山は、1962年、急遽盈進高校を設立した。初年度一クラス40名、次に2クラス100名が、3年目には300名、つづいて8クラス450名に膨らむ。この前年に戸田建設に依頼し、RC造4階の校舎を建てたが、4年目には、新入生だけでA組からL組まで12クラスで一学年720名を超えた。
教室が足りず、一クラス60名という非教育的なクラス編成がこの後も続く。クラス定員を減らせば良いだけの話だが、一人でも多くから授業料を取るのが最優先となり、理念に基づく教育に最適な規模、クラス定員数などは夢の又夢であった。
高校生急増に対応しての教育環境の整備に責任を持つべき都の学事部も、高校浪人を出さないことが至上の課題となっていたために、受け入れてくれるだけでありがたい私立高校に対しクラス定員の適正規模について指導するなど考えてもいなかったのだ。
軒並み定員60名を超える私立高校が次々に出現し始めた光景は、教育を忘れ授業料増収に狂奔した私学経営者がつくりだしたもので、この後しばらく日本の教育史上かつて見られなかった詰め込み教室という異
常な状況が続いた。

酒井田の急務は教員の確保だった。秋田県の出身で東京に人脈を持たない彼は、市ヶ谷の私学会館に日参した。登録してある教科別の教員希望者リストが頼りだったのである。毎年、新教員が専任,時間講師とも10数人ずつ入って来て、教員数は100名を超えた。新人教育はなかった。その暇もないし、指導者もいなかったのである。ヒゲの持論に「良い教員は最初から良い教員であり、ダメな教員は何年経験を積んでもダメだ。」があるが、そこには、「どう指導してもダメな教員はダメだ。」との認識があったかと思う。
偶々大学での恩師、日本近世史研究者の児玉幸多(当時学習院大学教授)が丸山の義弟であり、英語の教員を探しているので行ってみてはと盈進高校に推薦してくれた。

武蔵野市の盈進学園に出向く。最初に丸山理事長の面接を受ける。開口一番、「あなたは教育基本法を読んでいますか?」と聞かれ狼狽した。読んでいると嘘をついたが、「これを繰り返しよく読むのが、教員にとって何より大切なことです。」と言われ深く恥じ入った。冒頭に教育基本法をかまされるとは思いもよらなかったが、この学校には自由がありそうだと感じた。憲法と教育基本法は、当時の社会における民主主義と自由な教育の象徴だったのである。
次の面接者が「ヒゲ」だった。背筋がピンと伸びて姿勢が良く、大正時代のまん丸メガネと手入れされた口髭がいかにも田舎の好々爺に見えるがうわべに騙されてはいけない。憲法のことでも聞かれるのではないかと緊張していた。
と、いきなり、「月にいくら欲しいのですか?」と聞かれた。とっさのことでよく考えていなかったが、3万円はほしいと答えた。それまで出版社の外注である編集・校正の仕事と大学院の奨学金で暮らしていたので、収入が不定期なのは当たり前、毎月の定収入である月給など考えたこともなかった。「それは保証しましょう。」と言われホッとした。次はいよいよ憲法かと身構えていたら、重々しく「非常に大事なことですが、遅刻と欠勤はいけません。これが守れないと教員は失格です。」と言うのである。「はい。」と答えると、もう酒井田は椅子から立ち上がる。
「合否の通知はいつごろ来るのでしょうか?」と聞く。
「え?」という顔をしたが、次の一言に驚いた。
「あなたは、今、合格しました。」
いくら欲しいかと、遅刻・欠勤はいけない以外は何も聞かない。5分で終わった。
前代未聞の面接だったと思う。給料は毎月、理事長から袋入りの現金を手渡される。意外だったのは、希望額より五千円多かったことだ。あとで知ったのだが、職を得たい一心で誰もが低めの金額を言う。それを聞いた上で五千円を上乗せするのである。これで、しっかり働こうという気持ちになる。私もそうだった。酒井田は、人をよく理解していたのである。

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