第 三 部 盈進学園小史 第 一 章 生徒急増に乗った盈進高校とその破綻

創立者丸山鋭雄(としお)は、武蔵野市の一角、旧中島飛行機工場跡地3,000坪にある木造2階建ての建物を校舎・給食調理室とし、工場跡の建物を体育館して使い、小学校を創立した。「盈進」とは創立者丸山の教育理念に賛同した徳富蘇峰が与えてくれた名称で、孟子の「源泉滾々昼夜ヲ捨テズ 盈チテ後進ム 元アルモノ斯クノゴトシ」に由来している。蘇峰は、庭の植木のようにきれいに揃えて刈り込む様な教育を嫌った。丸山は一人ひとりの個性を伸ばすことを教育の理念としていたのである。

酒井田景三先生(東野高校開校祝賀会にて)

丸山は、秋田県横手市出身の酒井田景三を主事(教頭)として招く。彼は妻子5人で調理室の2階に住み、創立者丸山の理念を体して小学校の運営にあたった。頭髪だけは黒々としているまんまる眼鏡の痩せた田舎のおっさんが、チョビ髭を蓄えてとつとつと話す。一見、正体不明で温和そうだが、見るものが見れば油断できない人物とわかるだろう。教員の間では、「ヒゲ」と呼ばれていた。
作文指導を専門とする国語の教師で、古くからの日本児童文学会員でもあった。盈進小学校4年生の女子生徒を指導して、翌年文部大臣賞を取らせた。1年間にわたる毎日の日記の後に赤鉛筆で感想を記す。それだけである。添削は一切しない。彼独自の作文指導法であって、誰もが真似できるとはいえない。添削だと、どうしても指導者の考え方、作風(スタイル)の押し付けになるのを避けられないので、書き手の個性を活かすことにならないと言うのである。
アメリカの教育は個性尊重のように見えるが、大学での作文指導は論文執筆を目標にしていて、どこへ行っても徹底した添削である。小説、評論等の創作が目的でないのなら良いかもしれないが、いずれ個性伸長とは無縁かと思う。アメリカ西海岸の教育者セミナーで個性教育を説くヒゲの報告が新鮮だと評価されたのも、アメリカ教育での画一的な押し付け作文指導の立場から見れば、納得できる。

丸山は長野県佐久の出身、背が高く、子供に話しかける時の温顔は生まれながらの教員だと思わせる。彼と教育の理想を共有したのだろうが、世俗を超えているところでは酒井田がはるかに上だったと思う。丸山も、酒井田の学校運営の手腕と教育面でのユニークな指導には常に一目おいていた。待遇は悪かったようだが、それは丸山夫人(とく)が財布の紐を握っていたからだと思われる。一学年30~40と生徒数は少ないが、丸山の教育理念に賛同する父母に支えられていた私塾と言っても良い存在だった。

「第 一 章 生徒急増に乗った盈進高校とその破綻(1)高校生急増期の異様な光景」へ
目次に戻る