第 三 部 盈進学園小史 概要とお断り

東京都武蔵野市で盈進小学校として始まった盈進学園は、その後、中学校、高等学校、盈進幼稚園を併設する。この時点で、生徒急増期に急速に規模を拡大した高等学校が学園の主体になっていった。
規模の拡大で授業料収入は急増したが、教育環境としての施設の整備、教職員の待遇改善への投資を行わず、生徒数激減の危機に際してそのツケが回ってきた。甘言による辞表集め、第二組合の設立、組合潰しがことごとく失敗し、ついに、大東文化大学に吸収合併されてその付属となる。

付属の時期に、盈進学園教職員組合は、大学、付属高等学校教職員組合と共同し、三共闘として理事会との団交に臨み待遇の改善に大きく前進した。付属盈進学園の施設面では、大学の神立財務担当理事の指示で、盈進幼稚園舎新築、高校校舎の増築があり、教育環境は大幅に良くなった。続いて、神立理事は、国家公務員(2号俸上の東京都地方公務員)の給与を基準とする給与体系を策定し、組合側もこれを受け入れることで,長年に亘る低賃金と個人間格差を解消した。教職員の組合に対する信頼は一層強くなったのである。

そこへ、幼稚園舎の向かいに地元の地主がガソリン・スタンドを建設する計画が持ち上がった。園児の危険を避けるために、幼、小、中、高の教員が一体となって父母とともにスタンド建設阻止に立ち上がり、タンクの持ち込みを監視するために園舎での200日の泊まり込みを含む反対運動を展開した。
この間、大学理事会は、三組合共闘の力を弱めようと、盈進学園の切り離しを計画する。
盈進では、大学の付属として安定していたのを、そこから切り離して放り出すのかという意見もあったが、教職員組合はこれを受け入れた。経営者が誰であろうと、教育現場を守るのが教員の使命であるし、独立して大学の規制から解放されるのはむしろ良いことではないかと考えたのだ。
大学に埼玉県の調整区域の土地を寄付して理事となっていた開発業者の沖田嘉典が理事長として送り込まれ、学校法人盈進学園は再び独立法人となる。彼は、東上線沿線の富士見市の宅地開発を計画していたので、新駅の建設を東武本社と約束し、ここに盈進学園を移転させようとしていた。沖田は、学園の移転が目的だと繰り返し明言していた。
他方、ガソリン・スタンドの地下タンクを強引に運び込もうとの試みに動員されたガードマンらを防ぐために、教員は歩道に幼稚園の机、椅子でバリケードを築き、最後は突入を試みるガードマンらと乱闘になった。武蔵野警察署に地主と学園側の双方が呼ばれ、その後、地主の断念でガソリン・スタンド問題は解決した。
この後退職した村上幸子(旧姓津田)が、お別れ会でのこした「反対運動を通じて団結の力の強さを学びました。」との発言は、この時の運動の意義を要約している。実は、ここで示された教員の団結は後に述べる妨害活動で「盈進プロジェクト」が苦しい状況を迎えた際、これを乗り越えるにあたって其の力強い背景となったのである。

沖田は、ガソリン・スタンド問題では終始傍観者で、もっぱら移転問題に集中していた。しかし、大東文化大学理事会が協力を拒否して、移転話は立ち消えとなる。沖田は理事長をやめ、亜細亜大学の法学部教授鈴木薫が理事長に就任、同大学の教授を理事に加えて新理事会を組織した。初めて、大学との関係が切れ、法人はほんとうの意味の独立を果たしたのである。
新法人の課題は、新しいキャンパスの建設だった。ここで、財務と総務担当を兼ねていた私が、新キャンパス建設担当の責任者に指名された。当初は、狭い敷地での高層化計画であったが、準備活動の過程で、埼玉県は、新設高校三校に高校増設対策として各々7億円の補助金支給を決定する。これで、埼玉県に新たな広い土地を求め、そこに高校を新設し木造低層主体のキャンパスを建設しようという計画に大きく舵を切り替えた。「盈進プロジェクト」がスタートしたのである。
新設する高校の名前は、倉橋治(当時盈進高校校長)の提案した東野高校が、理事会の満場一致で採択された。明るい未来への期待を示唆する名前である。

メインを第一勧銀、サブとして協和銀行、三菱信託銀行の三行の協力で資金計画が整い、三菱信託の紹介で埼玉県入間市二本木の丘陵地に2万坪の茶畠という学校用地に絶好の土地が見つかった。開発の難しい土地だったが、この時点では、それほど悲観的になっていなかった。
設計者探しで行き詰まっているとき、偶々読書を通じて英国の建築家で当時カリフォルニア大学バークレー校の教授であった クリストファー・アレグザンダーが建築に関して同じ考えを共有していることを知り、学園は彼に「盈進プロジェクト」の主任設計者を依頼する。
アレグザンダーによるユニークな設計作業が順調に進み、幸い、難しかった入間市二本木のキャンパス予定地の開発が認可された。
後は、工事計画を具体化し、用地の取得と武蔵野市の校地の売却をすれば良いとの見通しが立ったとき、突然、沖田元理事長が、既に理事会の承認を得て進めている「盈進プロジェクト」に公然と反対したのである。彼は、これに同調する一部理事、評議員らとともに妨害活動を始めた。武蔵野市の校地を売却し、県からの補助金を得て埼玉県入間市の建設用地に東野高校を新設するとの計画を白紙に戻せというのである。

妨害活動は激しさを加え、その後、ついに埼玉県私学審議会での東野高校新設認可そのものをなりふり構わず阻止するようになる。
1983年6月の理事会、評議員会は荒れに荒れた。しかし、既に理事会の正式な決定を受けている「盈進プロジェクト」は、その後の教職員会、理事会の承認の下に、アレグザンダーと教職員の間で設計作業が具体化しつつある。これを、今更覆すのは不可能だった。
入間の新校地を取得した後に武蔵野校地を売却することを9月の評議員会で約束し、それに基づいて、10月入間の用地を購入、続いて11月に三菱信託本店で行われた入札を経て長谷川工務店が予定価格を大幅に上回る43億円で落札、学園理事会は正式な契約書を締結して武蔵野校地を売却した。評議員会での約束通りなので、売却後の評議員会では怒号が飛び交ったが、どうしようもなかったのである。
しかし、沖田は12月、「売却契約無効確認」の訴訟を起こした。これで、彼が武蔵野校地の売却に絡み利益を得ようとしている目的がはっきりした。同調者は、そこから得られるだろう利益に寄生しようとしていたのである。
当時日本で有名だったインテリ総会屋の小川薫までが妨害活動に加わる騒ぎになった。ここで、彼等は、東野高校設置認可そのものをなりふり構わず阻止する動きに変わる。設置が認められなければ、盈進プロジェクトは瓦解するからである。彼等は、私学審議会の各メンバーに捏造の文書を大量に送付するという卑劣な手段に出た。その結果、2月、4月と二回にわたって高校設置認可が保留となる。いよいよ、6月の最後の審議会に学園の運命をかけることになった。5月末に開かれた和解協議も、彼等は、認可は降りな
いとの予想で強気になっており、もの別れに終わった。

この時、朝霞市の一女性が訴訟を起こしていた廃棄物処理場の建設について、浦和地裁の判決が出た。この判決で、県の審議会はすべて公開するよう命じられ、それまで非公開だった私学審議会が公開となる。ようやく東野高校が認可された。奇蹟ともいうべき幸運だったと思う。
その年の夏休みに入った時点で、県の勧告があり、沖田ら3名を理事に加え、更に県から元社会党代議士が派遣されるという条件で訴訟を和解にするよう要請される。沖田らは新キャンパスの完成まで工事などの妨害はしないと約束し、理事会は県の要請を受け入れた。
1985年3月工事は完成、翌4月に東野高校は、最初の新入生を新キャンパスに迎えた。
このとき、武蔵野市の盈進学園には、卒業を控えている生徒がおり、東野高校の開校後も、沖田らは長谷川工務店への土地引き渡しを妨害し、依然としてこの売却に絡もうと、陰湿な妨害活動を続け、1987年1月には学内での暴力行為に及んだ。1987年6月、最終的に、妨害分子は学園から一掃されたが、足掛け5年にわたる妨害活動は、東野高校の明るい学校活動の歴史における陰の部分であった。

歴史である以上、すべて顕名にすべきであろうが、今や、既往茫々、彼等に個人的な恨みもない。首謀者である沖田嘉典、一時盈進学園の理事長を勤めていた鈴木薫を除いて他の人物は匿名にし、事実経過だけを述べることにした。歴史の改竄は許されないが、現存する人物を非難し社会的制裁を加えることがここでの目的ではないので、匿名は容認していただけるかと思う。

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