第 一 章(3) 思想の共存は可能だったか

1)あえて木造を復活した日土小学校

米ソの対立する冷戦の下、そのいずれにも属さない第三世界の立場で、インドの首相ネルーが「平和五原則」を提唱した。資本主義社会と社会主義社会という異なる社会体制はこの地球上で平和的に共存出来ると主張したのである。その実現性はともかく、いつ米ソ間の戦争が起こるかもしれないとの恐怖と緊張に脅かされていた各国の人々にとって、たとえ単なる可能性であろうと平和な世界は可能なのだとの提言は、大きな励ましになった。
くだいて言えば、考え方の違う人々は社会にいくらでもいるし、その生き方も考え方に対応して人さまざまだが、だからといっていつもお互いに争うことはない、お互いの違いを認め合って平和に生きていけばよいではないかというのである。
実際にはソ連のアジア、欧州での拡張への動きの兆しがあればことごとくそれらを抑えこもうという、ダレスのいわゆる“封じ込め政策”によって、米ソの対立は却って深刻になった。スターリン死後のソ連の内部崩壊によって、ようやく冷戦の解消が実現する。“思想の共存”は、現実には、そう簡単にはいかない難しい課題だったといえる。

木造低層を主体にする新しいキャンパスを建設しようとの「盈進プロジェクト」を進める過程で、建設工事の現場では、思想の対立がしばしば抜き差しならない局面を迎えた。
科学技術文明の発展に支えられた現代のRC造・高層化・機能重視の近代建築の流れは、日本の建築請負業における合理化・大量生産方式と結びつくことで、堅固な近代建築文明を築き上げてきた。学校建築の分野でもこの流れの圧倒的な威力を見ることになる。
1960年代までは東京など大都市はもちろん全国のいたるところに残っていた木造二階建ての、所謂擬洋式校舎のある学校は、1970年代までの間に一斉にその姿を消してしまったのである。それに代わったのが、機能重視の近代建築・RC造の校舎だった。大構造の体育館も鉄骨造、あるいはRC造になる。いくつかの例外を別にすれば、木造低層の学校はきれいさっぱり一掃されたのである。
いくら日本が、世界に冠たるファッション大国だと言っても、これだけ徹底して木造の学校がなくなるのは、“近代化”だけが求めるべき善なのだと信じ、いささかの疑いも持たない行政を含む学校関係者と建築家が建設業者とともに強力な主導権を持ってことを進めてきたからにほかならない。欧米の文明の模倣を文明開化として、それを基軸に発展してきた明治維新以降の“近代化思想”が、第二次大戦後のバブル景気の始まりとともに学校建築の世界で動かしがたい奔流となった。素材としての木を捨て、一斉にRC造に向かったのである。

この流れを見るとき、八幡浜小学校(愛媛県)新築にあたって依頼された建築家の松村正恒が、県内すべての学校がRC造に変わっていった中で唯一の木造低層を実現したのは、今考えても大きな決断であったと思う。彼は、東京を離れて生まれ故郷の愛媛に戻り、以後松山に定住していた。いわゆる近代化思想に距離をおいた、当時にあっては稀有な建築家だった。
偶々、盈進プロジェクトが完成した1985年の夏、愛媛県宇和市で第一回「木造建築フォーラム」が開かれ、招かれた松村が、基調講演を行っている。黒板に書いた「学校」という文字について、これを、「学校とは、“木と交わりて学ぶ”と読むのだ。」と説いていた。素材としての木への強い愛着が、言葉の端々にうかがえた。

日本本来の伝統的な素材である木を使って木造低層主体のキャンパスにしようと考えたのは、実は、全国の学校建築を訪ね歩き、偶々、この八幡浜市の日土小学校を訪れた時である。木の持つ素材としての有機的で豊かな優しさとくつろぎは、硬質のRC造では得られないものだと、改めて感じたのであった。
設計者の松村正恒という名前は承知していたがそれまでは面識なく、初めてこのフォーラムの席でお会いできた。日本での建築家はほとんどが近代建築家であり、“近代化思想”に距離をおいていた建築家は、今に至るまで、松村を含めて数えるほどしかいなかったと思う。

2)木と金属の間に妥協の余地はない

有機質の「木」と「金属」、プラスチック等の「人工素材」との対比が問題になった時、いつも「木の思想」というべきもののあることを実感させられた。実は、「木」という自然の素材の良さと深く結びついている「木の思想」と「金属」等の「人工素材の思想」の間に、中間はない。
対立の解決には、一般に、妥協という手法がある。両者の中間を求め、それを以って妥協を図るのである。足して二で割るというやや乱暴な手法もある。勝ち負けを決めないで解決しようとする知恵 に基づく考え方である。多くの場合、このように、中間を以って対立を解決する可能性があるし、資本制社会、社会主義社会という異なった社会体制をそのままにして両体制の共存を図る“棲み分け”ともいうべきネルーの提案もあった。

現実にプロジェクトを通じて頻発した「木」の思想に関わる対立には、この中間での妥協はあり得なかった。「木」の思想と「金属」、「人工素材」の思想との共存は不可能であることを工事の現場で認識させられた。
大構造の建物で問題になったのは、体育館であった。「木」の体育館に対して、フジタは「鉄骨」造を主張した。典型的な“中間のない”実例である。中間での妥協もなければ、鉄骨造で内装に「木」を使用するような妥協も成立しない。大口径の木材による体育館の骨格が「木」造体育館の生命だからである。

「タフで優しい。」というハード・ボイルドの心情は、「木」の体育館だけが人々に提供できる最大の贈り物の一つなのだ。「木」と「鉄」の対立は、解決も回避もできない。どちらかに決めるしかない。業者も理事会も鉄骨の大合唱を演じた中で、文字通り孤立し、一度は諦めかけたが、敬愛してきた建築家である先輩の浦林亮次は深夜の電話で、「これを鉄骨造にしたら、あなたの今までの苦労はすべて水の泡になりますよ。」と激励してくれた。翌日、藤田一憲に懇願して「木」を受け入れてもらった。

教室棟の窓は全て「木」のサッシュを予定していた。偶々敷地は、航空自衛隊入間基地からの訓練飛行航空路の下になる。騒音を防ぐために、アルミの防音サッシュにすれば、一億円を補助するとの防衛施設庁からの提案があった。「木」と「アルミ」の間に中間はない。機能面、利便性を議論すれば、「木」に勝ち目はない。そこへ、理事会も教職員も動揺するような、一億円という巨額の補助金が提示されたのである。
技術文明の成果として、「木」のサッシュと見分けがつかない木目模様のアルミ・サッシュが既に出現していた。結構支持者もいて、いずれ偽物であると承知しながらも、外見で木に見えるならそれで良いではないかという意見も出てきて、窓のサッシを巡る議論は泥沼化しかねなかった。
既に、「木」のサッシュは、設計作業の第一段階から教職員、理事会全員一致で決定していたことで、議論が深みにはいらない内に解決したが、中間の妥協がない問題の難しさを痛感させられた。

窓のサッシュ、教室棟外階段の手すり、渡り廊下の天井などにレッド・ウッドを使ったのも正解だったと思う。日本の檜にあたる合衆国での贅沢な内装材だが、錆びないし、濡れに強い。柔道場のレッド・ウッドを張り詰めた美しい壁面は、この空間の静かな緊張感を支えている。
現実の世界でもなかなか難しい課題だが、プロジェクトを通じて、建築現場で思想の共存は不可能だという実態を思い知らされた。「木」と「人工素材」との対立は、実は、文化と文明の対立につながっていたのである。自然の素材である「木」の思想が地域性を持つ文化だとすれば、他の「人工素材」の思想は、より普遍性が高い文明=科学技術分明に関わっていて、地域性はもたない。

この対立は、一般的に言えば、ひとりこのキャンパスの問題であるだけでない。世界のあらゆる地域の環境問題が、文化と文明の対立なのである。このキャンパスは、合理的な考え方では役に立たない池を持ち、自然の通風を選んでエアコンを放棄した。池は、このキャンパスに生命を与えている。

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