建築で最も学校建築に近いのは「住まい」であろう。
一般に建築は、限定された単一の使用目的を持っており、それに応じて設計される。その結果が、重厚で厳しい雰囲気の裁判所、おしゃれなレストラン、機能本位の工場、祈りの場としての神社、仏閣、教会となって現れる。
おしゃれな裁判所や厳粛な雰囲気を漂わせる工場がないのは、建築がその使用目的から切り離せないからである。「・・・らしい」建築ができるのは、それぞれの使用目的から生ずる必然的な結果なのだ。
使用目的を単一に限定できない建築がある。「住まい」である。
1)「住まい」とは何か?
第一に、「住まい」の使用目的は、その他すべての建築と一線を画している。多目的なのだ。
「住まい」は、多くの機能を必要としているが、それらに対応するものとしてプライベート、パブリック、両者の中間という三種類の空間がある。
プライベートな空間としては、寝室、子供がいれば子供部屋、それにバス・ルームが不可欠だ。ゆとりがあれば、書斎、工作室もほしい。
パブリックな空間では、玄関、食堂、居間(リビング・ルーム)がある。昭和初期の東京の住宅には、一部屋だけ洋室になっている応接間というのがあった。
台所、食堂は、しばしば両者の中間の空間として使われる。
それぞれの部屋には家具、備品、衣類、雑貨を収納する空間も必要になる。
これら三種類の空間は、眠る、休む、食事を料理する、食べる、入浴する、談話を楽しむ、テレビを見る、勉強する等々の諸機能を充たしている。使用目的は多様なのである。
このように多くの機能を必要とするのが、「住まい」の特徴である。ホテル、病院などがこれに近いと言えそうだが、後に触れる理由で「住まい」とは決定的に違う。
第二に、「住まい」は機能だけではダメで、さらに大切な条件がある。諸機能を充足するそれぞれの空間が、全体として豊かさを感じさせる、くつろぎの場”になっていないと「住まい」にはならない。これは、建築が「住まい」になるための“決め手”であって、他の建築にはない特有の条件と言って良い。
法廷でくつろがれては、裁判にならない。能率第一の工場にくつろぎはいらない。
第三に「住まい」が“くつろぎの場”になっている根拠は、その際立った特殊性として実利と切れているということだ。これが、「住まい」を他のあらゆる建築と区別している。他の建築は、業種が何であれ、いずれも実利につながっている。ことごとく仕事の場所“稼ぎ”の場なのである。
「住まい」は、それが実利と完全に切れているからこそ,“帰宅”という用語が成立するのだ。この言葉には、一日中追いまわされていた“実利の世界”からの解放の響きがある。
第四に、“くつろぎの場”というのは、毎日繰り返される日常生活でのことだ。それは「ケ」であって「ハレ」ではない。ホテル、レストラン、バーなども“くつろぎの場”を標榜しているが、それは、「ハレ」に属しているのであって、「ケ」ではない。非日常の場で日常生活を送ることはできない。
第五が、装飾。「住まい」に装飾は不可欠だ。
好みの内装に工夫を凝らすのは誰もが試みていることだが、家具、調度から照明に至るまで、装飾性を離れては、豊かな“くつろぎの場”としての居心地の良さを確保できない。機能だけでは豊かさ、くつろぎを感じることはできない。
好みの装飾で「住まい」を美しくしたい、可愛らしくしたいというのは自然な気持ち、感情の動きであって、その内面の欲求が形となって現れるのが、素材へのこだわりであり、仕上げでの工夫であり、又、玄関に一輪挿しを飾ろうという装飾なのである。外から取って付けたものではない。
言うまでもないが、「住まい」の装飾は、「ハレ」では困る。ポスト・モダンの装飾の多くが無意味で必然性を感じさせないのは、それらが内面の心の動きから来たものではないからだろうが、それらはことごとく非日常的な「ハレ」である。それらは、日常性が大切な「住まい」の装飾にはならない。
このような、他の建築と区別される「住まい」に特有な諸条件は、小住宅でも豪邸でも同じだ。時には、政治の世界などで、豪邸が実利絡みの策謀の場所になることもあるようだが、「住まい」の悪用であろう。せっかく実利から切れている“くつろぎの場”なのに、もったいないことだ。
2)多機能だけでは学校にならない
学校にも、「住まい」と同じことが言える。
学校は、教職員と生徒が毎日、日中の殆どを過ごす暮らしの場である。彼らの「住まい」なのだ。使用目的は当然多目的である。一つに限定することはできない。
機能面では、まず学習の場だが、教室があればそれで良いということにはならない。実技学習に対応するための体育館、屋外運動施設、美術室、音楽室、家庭科室、理科室、図書室が必要だ。学習の多様性を反映させねばばらないのである。この面で、中学校、普通高校は、専門学校などの各種学校と違う。調理士養成学校に体育館はいらないし、音楽室のある英会話学校は無いと思う。
学習だけが学校生活ではない。放課後のクラブ活動、生徒会活動、諸行事、仲間の間での談笑会、議論、喧嘩、説教、恋愛、密談等々、これらのことごとくが学校生活を構成する。諸行事である入学式、卒業式などには大講堂、怪我や急病に保健室は不可欠だ。
というところで、普通なら、学校についての認識は終わってしまう。これは、生徒の親も含めての学校についてのごく一般的な理解なのである。要は、学校には学習とクラブ活動、生徒活動等の場があれば良いということで、それ以外に必要なものがあるとは考えもしない。
従って、“学校には、「住まい」と同じにパブリック、プライベート、両者の中間という三種類の空間が必要と言われると、誰もが奇異な感じを持つだろう。なぜ学校にプライベートな空間が必要なのか、わからないのである。
学校は教職員と生徒の日常生活の場として、彼らの「住まい」なのだと言われると「なるほど・・・」とは思うのだろうが、だから学校にはプライベートな空間が必要だとは誰も考えない。夢にも思わないのである。
3)なぜ学校にプライベートな空間?
近代建築における合理主義、機能主義の立場から、学校建築では合理的に体系付けられた学校活動の諸機能の系に、建築の系が対応するものとして具体化されていれば良いと一般に思われている。合理になじまないもの、合理的な学校教育の系に位置付けられないものは、考慮の対象外となる。プライベートな空間というのは、この対象外なのだ。それは、学校についての一般的な理解では無意識に外されている。
「住まい」に不可欠な、他の建築と一線を画する特有な条件は、それが“くつろぎの場”になっているということだった。学校生活を「住まい」と考えないできた一般的な見方では、その視点が致命的に欠けていたように思われる。
“くつろぎ”は、一人であるいは数人のグループで落ち着いて話したりして過ごせる場があって初めて得られる。一人で思いに沈む空間、仲間内で周囲に気を使わずに心置きなく談笑できるプライベートな空間が必要なのだ。「住まい」なら当然不可欠であるプライベートな空間は、学校では今まで軽視、と言うより無視されていたのである。学校が日常生活の場としての彼らの「住まい」なのだという認識がなかったからだ。
学校が教職員、生徒の「住まい」として“くつろぎの場”を必要とする根拠は、そこが“実利”と切れていることから来るのだが、この点の認識がこれまでは決定的に欠けていたと思う。 学校は“稼ぎ”の場ではなく、それから解放されている場なのである。終日仕事と稼ぎに追われている職業人の立場から見れば、それは羨やましい別世界と言える。
学校は、”桃源郷“であって良い。
学校生活は“社会生活”の一部だというわかりやすい理解が強調されるあまり、学校が“実利”と切れているという決定的な違いが見過ごされてきたのであろう。就職後、誰もが学校生活を懐かしく思うとき、それが“実利”と無縁の世界だったことを改めて認識させられるのだと思う。
と言って、プライベートな空間があればそれで良いということにはならない。“住まい”では、パブリック・スペースである食堂も居間も豊かな“くつろぎの場”でなければ“住まい”にはならなかったが、学校も同じである。
装飾は、その意味で、学校建築にとって不可欠なのだ。それも「ハレ」ではない。
「住まい」に共通している装飾と言っても、学校生活の主体は若い生徒だという点が、家庭とは大きく違う。装飾も装飾性も、若者にとっての活き活きした楽しいものでありたい。装飾を排除してきた近代建築はこの意味でも不適切だと言えるのだが、と言って「ハレ」に腕をふるいたがるポスト・モダンでは「ケ」としての学校生活が必要とする“くつろぎの場”にはならない。
豊かさ、くつろぎは、人の感情,感性に関わるものなので、合理になじまないし機能的に位置づけるのは難しい。だからといって、これをとらえどころのないものとして形而上学的に扱うべきではない。豊かさもくつろぎも、実態のある現実のものなのだ。
「住まい」が豊かなくつろぎの場になり得るのと同じように、学校でもそれは可能である。普通の「住まい」にある“どこか覚えのある懐かしい空間”は、誰もが共有できるものだが、学校建築は、それが「住まい」なのだという基本的な考えが理解され考慮されていれば、なぜ学校に“どこか憶えのある懐かしい空間”が必要なのかわかると思う。それは、合理とも技術文明とも無縁であり、優れて感情、感性が具体的な形を取ったものなのである。
新しいキャンパスに求めたもので最も大切なものは、くつろぎの場であり、プライベートな空間であり、憶えのある懐かしい空間だった。
「第 一 章 キャンパスに求めていたもの、考えていたこと(2)現場で決める、立ち上がりを見ながら決める、絶えざる修正」へ
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