第 五 章(9) 工事の再開

フジタは、1月に、敷地内の池の予定地に現場事務所を設置、工事に入っていた。アレグザンダーの指示で正門用の特殊ブロックの試作等を進めながら土木工事に着手していたが、ブロックの手配を含めて大幅に準備が遅れていたため、急遽、藤田敏美所長が赴任してきた。彼は、ブロックのメーカーを呼び、膝詰めで試作品完成の期限を約束させた。実務の進め方のスピードは、彼の就任後は目に見えて改善された。一刻の遅滞も許さない工事の段取り、資材、職人の手配などの的確な指示は、現場の活気を見違えるように変えていったのだが、そんな時に審議会の保留による工事の中断になったのである。

6月の審議会で新設高校認可の答申を得てからは、フジタは直ちに突貫工事に入った。工事期限まで、9ヶ月もないが、藤田所長は重圧を背負いながらも自信を持っていた。帰国前のアレグザンダーの指示があったので、暫くはそれで工事を進めることが出来たが、所長が来て「アレグザンダー先生がいないと一歩も仕事を進められない。至急、日本に来てほしい。」と悲鳴をあげていた。
工事が中断した段階で、事実上施主側との窓口になっていた藤田東京営業部長から、暫くフジタに設計監理を任せてほしい、そうでなければフジタは手を引くという話が出た。そのようなことの出来っこないのはわかっていたが、高校の認可が保留になっている最中に、いささかのトラブルがあっても致命傷になりかねない。いずれ工事の現場をよく知らない藤田部長がどう思おうと、仕事が進まなくなるとわかっていたので、その場では、認可を優先して、同意することにした。
予想通り、工事再開後一週間もたたないうちに、藤田敏美工事所長のきつい要請が来たのである。藤田部長の“設計監理を任せてほしい”という申し入れを、工事所長は全く聞いていないことが後にわかった。とすれば、現場を設計者なしにしたままで海外に出張していた藤田部長は、アレグザンダーの推薦を受けているのにそれを裏切っていただけでなく、同時にひどく無責任だったと言えるように思う。

偶々、認可に関して至急話したいことがあると、県学事課の至急の呼び出しが来たので、先ずそちらへ出向くと、正式な認可の条件として、妨害活道に走っていたメンバーから、元理事長を含む3名を理事会に入れることで訴訟を和解にしてほしいと言われた。県からは、畑知事の長い友人である社会党の元代議士を送り込みたいとの要請である。要請とは言うが、事実上の命令であった。
理事会に報告、止むを得ないと要請を受け入れることになる。承知したことを県に伝え、その後直ちに渡米する。
藤田部長が出張でロスアンゼルスにいたので、彼に会い、藤田敏美工事所長の要請を伝えて、前の申し出を撤回させた。工事が動かないのでは、話にならないし、もともと彼の思いつきの申し入れなど、実現の可能性はゼロだったのである。

審議会の保留が続く間、充分な情報も提供できないでバークレーで待機していたアレグザンダーに会い、直ちに来日するよう頼んだ。彼も、ホッとした様子だったが、その間のこちらからの連絡が滞っていたことについては、説明しても充分納得はしなかったようだった。妨害活動で私学審議会の認可が二度にわたって保留となり、「盈進プロジェクト」そのものが危機的な状況だったことを説明するのは、容易でなかった。妨害についてアレグザンダーには一切話していなかったからである。高校設置認可がおりないので身動きができなかった事情については、わかってくれた。彼は9月に入ってすぐに来日した。

アレグザンダーと、彼の来日を待っていた藤田敏美所長との打ち合わせは順調にはかどり、工事は大きな問題もなく再開した。アレグザンダーは、スタッフのハイオ・ナイス、中埜博とこれからの工事の進め方について、詳細に協議を続けていた。石本の浦林専務が紹介してくれた棟梁、住吉寅七が現場に常駐していたのをアレグザンダーは心強く感じていたはずだ。
この時のアレグザンダーの動きと指示は藤田所長を通じて、急速に現場の空気を活気づけていった。所長は、アレグザンダーを心から尊敬しており、会社との板挟みになって彼の指示通りにいかない場合もあったが、彼の意図はよく理解していて敬意を失うことはなかった。可能な限り、アレグザンダーの意図するよう努力してくれたと思う。

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