第 五 章(1)「盈進プロジェクト」が評価され開発認可

当時、日本ではこれといった斬新な事業がほとんど無かった。そのような状況を打破する事業として、「盈進プロジェクト」が注目された。
アレグザンダーを設計者とし、戦後最大の木造大構造の体育館を持つ木造低層主体の「盈進プロジェクト」が、関係省庁で、社会的意義のある事業だと評価されたのである。
実際には、特別管理法案の下で、関東農政局での手続を経て、埼玉県農政課が対応、その指示を受けて、入間市が具体的な実務を進めた。

1983年3月、入間二本木の用地の開発が、正式に認可される。
後は、三菱信託を通じて、地上げの最前線を引き受ける飯能の協和不動産三浦社長の活躍で、32名の地主と個別に交渉して価格を決めるのを待つだけだ。それにしても、同じ集落内の地主等が、相互に秘密を守り、各地主との合意が一切漏れないという仕組みを構築した三浦の交渉技術の冴えには、驚かされた。
予定価格は、三菱信託を介して伝わっているのに、実際に土地を習得するのが大幅に遅れていた。

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