第 二 章(2)資金計画と土地探し

土地探しは、三菱信託銀行吉祥寺支店に依頼することにする。従来から取り引きのあった第一勧銀吉祥寺支店がメイン、協和銀行吉祥寺支店をサブとし、三菱信託とともに三銀行の協調体制が成立した。三菱信託は、当時規模の大きな事業計画がほとんど無かったので、武蔵野市の土地の売却、埼玉県での新校地の取得にあたりそれぞれから3%の手数料という大きい仕事なので大歓迎だった。他の二行も、一も二もなく積極的な協力を約束してくれる。預金は、メイン、サブ、三菱信託に、常時それぞれ5:3:2の割合で配分する、完成するまで、必要な資金は三行が総額50億円の範囲でいつでも学園の請求に応じて融資する、割合は預金のそれと同じにするという条件が確認された。

坪100万円として土地売却代金が30億円、埼玉県からの補助金が7億円、私学振興財団からの融資が7億円、それに手持ち資金の定期預金が2億円の合計46億円が総予算となる。東野高校の開校時、盈進高校には未だ2学年残っている。彼等が卒業するまで、学園は二つの高校を経営することになる。新しく購入する土地代金15億円、キャンパス建設資金20 億円として、残りの12億円で、設計料、在校生が武蔵野の盈進高校を卒業するまで2年間の経費及び雑費を賄えばよい。概算の資金計画ができて、理事会はこれを了承した。

問題は土地探しである。所沢周辺の土地があったが、充分広いとはいえない上に暴力団が絡んでいて権利関係が複雑だという。断念する。このほかいくつか見たが、いずれも条件に合わない。そこへ、入間市の二本木の丘陵地に3万坪の茶畑があり敷地内には一軒の家もないとの話が出てきた。
三菱信託の案内で現地へ行くと、川越へ向かう国道16号線の左手西側の丘陵地で、二本木からのゆるい登りの左手に、南北に走る県道との間の傾斜地の茶畑がある。県道の西側は、昔飛行場のあった平な土地が開けていてこれも一面の茶畑である。県道からだと東の16号線の谷間に向かって降る凹凸のある斜面になっている。北側を限るのは、二本木からの登り道である。
県道を南に向かうと右手に大妻女子大学があり、その先右手は狭山カントリー・クラブのゴルフ場である。敷地内に建造物はなく、ひと目見て絶好のキャンパス用地だと思った。凹凸のあるゆるい三万坪の斜面の周囲はすべて茶畑の緑に包まれている。遥か西には、丹沢の大山から御正体山、御坂山塊が続き、その奥には富士山、右手に向かって秩父、奥多摩の山々を望む。その中央には、奥多摩大岳の、特徴ある潜水艦のようなピークが意外に近い。西側の遮るもののない遠望と東側の16号線の谷間を見下ろす景観に恵まれていて、学校用地としてこれ以上の敷地はないであろう。

問題は、この土地が農業振興法の網がかかっている調整区域で、その上、構造改善事業の資金が投入されている農用地、すなわち農振農用地という開発の難しい土地だということだった。今までに七校が開発を試みて、ことごとく拒否されたという。しかし、これだけの学校用地が手付かずで残っている場所は東京近郊ではどこにもないし、高層計画から木造低層主体に大転換した「盈進プロジェクト」にピッタリである。今考えると不思議だが、いささかの悲観もなかった。持ち前の楽天主義を背景に、必ず道は開けると確信していたのである。

この間、埼玉県農業委員会の会長には別の土地を探すしかないと諭され、中央の出向である県の農政課長からは、現地の写真を見せられ、これだけの優良農地の開発など絶対あり得ないと引導を渡されたが、確信は揺るがなかった。未だ万全を尽くしてもいないのに悲観する必要はないのである。

施設見学の頃から協力してくれていた安井の若手設計者である服部、小田切の両名には、高層化計画をやめ広い敷地を求めて木造低層主体の新キャンパスを建設するとの「盈進プロジェクト」の方針は既に伝えてあったので、彼等にも現地を見てもらった。二人共、これ以上の素晴らしい土地はないだろうと一致して喜んでいた。
新キャンパスの設計は、引き続き安井に依頼することになっていたので、準備活動に協力してほしいと伝えた。1985年4月開校という期限があるので、それに間に合わせるには至急設計作業を始める必要がある。開発許可を得てから設計作業を始めるのでは間に合わないのである。両名には、準備活動として何を考えているのか説明した。

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