はじめに

学校といえばRCの建物を連想する多くの人々は、これが学校のキャンパスだとは思えないのではないか。これは、木造低層を主体にした、東野高校のキャンパスである。

1985年3月、学校法人盈進学園は、埼玉県入間市二本木の地に、この東野高校キャンパスを完成させた。写真はその全景である。

1981年4月クリストファー・アレグザンダーとの設計契約の席で、彼は「小さな美しい村を創る。」と約束した。どこか覚えのある懐かしい空間を学校建築に求めて来た私にとって、これ以上嬉しい約束はなかった。村には、そのような空間はいたるところにあるはずだからだ。

1985年4月8日、入学式。快晴の青空の下に、初めての新入生480名を迎えた。正門の前で待っていると、彼らは第一の門をくぐって父母とともに玄関道から続々と入って来る。玄関道を通るザクザクと砂利を踏む音が、快晴の朝の冷気にさわやかに響いていたのを、今でも昨日のことのように鮮やかに覚えている。

全国の学校建築がRC建築と鉄骨の体育館に変わってしまったので、戦後初めての木造大構造の体育館を持つ木造低層主体のこのキャンパスは、極めて異例なものとして多くの人々の関心を集めた。各新聞、テレビ番組、週刊誌などのマス・メディアは一斉に写真と記事で報道した。ある週刊誌のゴールデン・ウィーク特集号では、グラビアで”木も教育する”とのタイトルでこのキャンパスを紹介してくれた。私立学校にとってキャンパスが大きな話題になったことは、生徒募集の上でこの上なくありがたいことだった。

多くの方々が見学に見えた。可能な限り、キャンパスツアーにご案内し、ご質問を頂いたが、当時彼等に充分対応できたとは言えない。
多くの新聞、テレビ,雑誌等のメディアからインタビューを受けて、出来るだけ丁寧に対応したが、結果はこちらの意図と大幅にくい違っているのが常だった。自分の言葉で自分が書くという方法を取る必要があったのだと思う
RCの潮流に抗して木造低層主体のキャンパスを建設する上での様々な困難については、農林省林野局が発行している月刊誌「山林」に書かせていただき、そのほか幾つかの雑誌にも原稿を寄せたが、当時見学に見えた方々を始めとする多くの方々の貴重なコメント、ご質問にお答えできないまま、30 余年が経過していた。実は、学内外の学校関係者にも、伝えておくべきこのキャンパス諸施設の成り立ちについて述べる機会をもてないままで今に至っている。

当時、木造の学校を目指そうという気運が高まり実験的な試みも見られたが、一時的な動きに終わっている。今考えると、木造建築の学校への期待が続かなかったのは、当然であった。建てる側に、期待に応ずる考え方も態勢もなかったからだと思う。近代社会の合理主義、科学技術文明の下で、利益を追求する大手建築業界、近代建築家しかいない日本の建築の世界で、木造建築の学校の拡大を求めること自体が無理だったのである。彼等には、木造建築そのものについての経験も知識もなかった。

ここに、ホーム・ペイジを開設して、東野高校のキャンパスの成り立ちとその内容をご紹介する。長年気になっていた社会的義務の一端を果たせればとの願いである。同時に、このユニークなキャンパスが学校建築の世界に投げかける課題は、未だに古くはなっていないと考えているからだ。
学校、及び学校建築に関心をお持ちの方々を始め多くの方々にお読み頂ければ、これ以上嬉しいことはない。

通常は、東野高校に至る学園の歴史から完成までの経過を述べ、それに続いてキャンパス各施設の成り立ちとそれらを巡るエピソードをご紹介することになるが、ここでは、順序を変えた。学園の歴史は、第二部 各論で諸施設についてご紹介した後に、第三部としてお話することにしたのである。歴史はもちろん重要だが、第一部としては、どうして、このような木造低層主体のキャンパスが生まれたか、またそれがどのようにユニークなのかに興味をお持ちであろう読者の方々に、まずキャンパスそのものに接していただきたかったからである。

第一部では、木造低層主体のキャンパスのきっかけについて述べる。
驚かれるかもしれないが、盈進学園の新キャンパスの初めの構想は、学園発祥の地である武蔵野市3,000坪の敷地に建設する鉄筋コンクリートの高層化計画だったのである。
それが、準備活動の過程で埼玉県入間市での木造低層主体のキャンパスという方針の大転換に変わった。その結果が、理事会で決定した「盈進プロジェクト」である。東京郊外に新天地を求め、そこに木造低層主体のキャンパスを建設しようというのがその内容であった。
しかし、資金計画、土地探しの過程で、今の入間市の土地を候補地としながら建築家の問題で行き詰まってしまった。このとき、偶然、著書を通じてカリフォルニア大学バークレー校建築科の教授であった英国の建築家クリストファー・アレグザンダーを知り、彼に設計、設計監理に至る作業の全過程を担当してもらうことになった。建築家の問題は解決し、アレグザンダーの手法によるパタン・ランゲージの作成(基本計画)から設計監理に至る五段階の作業が進んでいったのである。

ここまでお話した上で、第二部 各論 で、新キャンパスについての基本的な考え方、それに関連した新キャンパスでの経験、特徴などに触れ、続いて、実際のキャンパス諸施設の成り立ち、エピソードをご紹介したい。その際、このキャンパス建設に大きく貢献した二人の優れた職人について、心からの感謝をこめて触れさせていただいた。

こうして、キャンパスの全体像を把握していただいたところで、第三部で、東野高校設立に至る学園の歴史を要約させていただいた。お読みいただけば、このようなユニークなキャンパスが、通常の平穏無事な学園から生まれたものではなかったことをご理解いただけるかと思う。

最後に、常に、全責任は自分が取るからと、新キャンパス建設の一切を建設担当責任者の自由な発想と活動に任せ全面的に支えてくれた元理事長であり恩師である酒井田景三氏(故人)と、次々と襲ってきた困難を当時の教職員とともに乗り越えてきた盟友クリストファー・アレグザンダーに心からの感謝を捧げたい。この二人なくして、このキャンパスはあり得なかった。

「このキャンパスは教職員皆の力で・・・」と言うと決まり文句のようになるが、100名の教職員が実際に設計作業に参加し、彼等の団結に支えられて多くの困難を乗り越えられたと言えば、更に正確である。事実だからだ。それぞれの面で活躍してくれた方々の名前を記して、ここに感謝を捧げたい。
倉橋治盈進学校長は武蔵野での最後の卒業生を送り出すとともに、「盈進プロジェクト」の新設校に「東野」という明るい未来を約束する名前をつけてくれた。萩原一雄東野学校長は、新設高校の教育基盤を整備し個性伸長のカリキュラムを作成してくれた。その強力なスタッフとして校長を支えたのが、何森仁、小島芳男ら後の教学の中心になったメンバーである。書芸をたしのみ、困難に出会うととかくこわばりがちな教員らをくつろがせてくれた会田隆昭、穏やかな物腰で萩原校長を補佐していた村越稔、アレグザンダーとそのスタッフを事務局としてサポートしていた錦織英夫、裏方に徹して資金計画を支えていた多田昭夫、長期間にわたりシアトルで木材の手当てに苦労した絹川祥夫らは、それぞれの面で他の教職員とともに重要な役割を果たし、多数の教職員を「盈進プロジェクト」の旗の下に結集させてくれたのである。

「第 一 部 第 一 章 どのようにして木造低層主体のキャンパスが生まれたか(1)狭い敷地の實例見学」へ
目次に戻る