キャンパスツアー(6) 木製の窓のサッシュと教室棟屋根の小組み

木とアルミの対立

© 2018 Mao Matsuda

基本設計、実施設計ともに、大講堂も含めた全棟の窓は木製のサッシュにすることが承認されていた。贅沢ではあるが、すべて耐水性のあるレッド・ウッドを使う。教職員の合意は得ているし,フジタにも異存がなかったので、問題が出てくる余地はないはずだった。事の起こりは、防衛施設庁からの補助金の申し出である。
キャンパスの位置は、航空自衛隊入間基地と米軍横田基地の中間である。騒音対策費として、既成のアルミ・サッシュを使うなら一億円の補助金を出すというのだ。寝耳に水の提案であった。
理事会はたちまち動揺した。木ということで同意していたフジタも、手間の節約になるということから、ただちに豹変した。建材市場を席巻している新建材の利点を掲げてのフジタの説得はなかなかの迫力である。宮大工という肩書の名刺の持ち主も現れた。彼によると、本物の木とそっくりのカラー・アルミ・サッシュという新製品があるが、軽くて手間はいらないし、耐久性も防水も完璧、よく見ないと木にしか見えないと言うのである。次々に、カラー・アルミ・サッシュの利点を列挙していく。今改修中の神社、寺の窓はことごとくこれであって、今や木の時代ではないと啓蒙にやっきだった。聞いていると、伊勢神宮がアルミになるのも時間の問題だなと思われた。
しかし、理事会は実施設計が終わった時点で窓のサッシュはレッド・ウッドと決定している以上、施工の段階に入ってすでに工事が進行しているのにこの決定を覆すことはできないし、アレグザンダーもこの決定の変更は拒否している。一億円を捨てるなど正気の沙汰ではないと、最後まで抵抗していていた理事たちも、最終的に補助金を断念した。

ホッとしたところで、教職員の内部から問題が出てきた。ある日、職員の一人が教職員のアンケート結果なるものを持って現れたのである。全教職員の意見は、圧倒的多数でアルミ・サッシュを支持している。多数意見を尊重するのが民主主義の原則である以上、これに従ってアルミ・サッシュにすべきだというのが、主張の根拠だった。
パタン・ランゲージ〈基本計画〉、配置計画、基本設計、実施設計の各段階ですでに多数の教職員が合意している、その合意に基づいて民主的な手続きを踏んできており、レッド・ウッドの窓のサッシュも教職員の合意による決定だと説明したが、納得しない。
「あなたも含めて、教職員多数の合意に基づいて民主的な手順を踏んで決定していることだ。今最終段階の施工が進んでいるところで変更は不可能だ。」
「いや、そうではない。アルミが木より優れていることがわかった以上、それに変えるべきだ。」と、耐久性、耐水性、軽量、強度などアルミの利点を列挙し始めた。
その上で、「ところで、なぜ木なのか?」と聞くので、「レッド・ウッド特有の感性と美しさは、木造低層のキャンパスに不可欠だ。その上、今までの各段階で教職員多数の意見で決まっている。それ以外に理由はない。」と退室してもらった。ファシズムだ、独裁ではないかと、憤懣遣るかたない様子だった。
設計通り、窓のサッシュはすべてレッド・ウッドで完成し、木造主体のキャンパスにアルミ・サッシュという異様な組み合わせを危うく避けることができた。言うまでもなく、木造建築に木製の窓のサッシュは自然な組み合わせであり、教職員から何の異論も出でなかったが、この件は、キャンパス建設の過程で明らかになった幾つかの重要な問題を含んでいる。

対立に現われた問題点

© 2018 Mao Matsuda

第一の問題は、「木を使う。」という選択が、普通の討議にはなじまないということだ。討議は、一般に、合理と機能の次元で可否を確かめ、論理に基づいて正誤を争うことになる。木とアルミの対立の場合、耐久性はともかく、強度、耐水性を見れば、木に勝ち目はないし、木が正しいと主張できる論理などはない。「木を使う。」という選択には、主として感性が関わっているのであって、感性、好みに関わることについては、合理の次元で論理的に進められる討議で可否、正誤を決めることはできないのである。

第二は、このような問題が、個人が時々の言動に責任を持とうとしない日本に特有の“もたれあい社会”から来るということだ。状況が変われば、前の決定はどんどん変わっていっても良いとされるのだ。こうなると、ある時点での多数意見が次の時点ではまとめて多数の反対意見に変わるなど、珍しくもない。この場合、個々人には、時々の自分の意思表示についての責任感がないか、あるいは非常に希薄である。
あの時はよくわからなかったので木で良いと賛成したが、後で言われてみるとアルミのほうが良さそうなのでアルミを支持することにした、これのどこが惡い?ということになる。一度木に賛成すればその決定については自分が責任を追わねばならないとの自覚、あるいは認識が見事に欠かけているのであって、これが“もたれあい社会”での自然の姿勢なのだ。いくら決定とか合意とか言っても、わからなくて賛成するより、後でわかってから反対に変わったのだからそのほうが良いのは当たり前だということになりかねないのである。
この例でのアンケートの結果が示しているのは、構成員の言動が無限に柔軟に変化する“もたれあい社会”では,合意―決定の手続きが持つ責任の重さは、無限に軽くなっていくということだ。これでは、少なくとも、建設工事が進まなくなることだけは、まちがいない。
私は、設計作業に入るのに先立って、木造低層主体のキャンパスにする旨提案し、全教職員、理事の合意を得た。それ以降、設計作業の各段階ごとに教職員の合意に基づく理事会の決定なしには先に進まないという民主的な仕組みを作って進めてきたので、あらゆる決定は多数の教職員の合意に拠って理事会で決定されている。たとえ理事長であろうと、キャンパス建設に責任を負う私であろうと、個人の一存でことを左右したことはただの一度もない。この窓のサッシュの件で、独裁などというのは、見当違いもはなはだしいのである。

しかし、第三の問題はさらに重要であって、それは、ことが形式上、民主的な手順を踏んで決定されているかどうかにあるのではない。そこで決定的な問題になるのは、ある事業を進めるにあたって、参加者が基本的な考え方を共有しているかということなのである。思想の共有と言い換えても良いかと思う。このプロジェクトで言えば、「地域の自然と風土を尊重した開発としての」「木造低層を主体とする木を主な建築資材にしたキャンパス」ということである。
このような思想の共有は、考え方から職人の有無も含めて「木のシステム」が失われている今日では、共有するということ自体が困難だった。事実、完成するまでの全過程を通じて、理事、教職員の多数が「木の思想」とでも言うべき考え方を共有することなど、終始一貫なかったのである。
1980年代前半という時期の日本の常識は、「木の思想」とは全く無縁のフジタの側にあった。事あるごとに、理事、教職員の多くがフジタに傾くのも無理はなかった。このような時代の常識に反する“時代の非常識”を百名を超える教職員が共有するなど、幻想というしかなかったのであろう。
ということなら、ある時点で同意したとしても、それが具体化し現実の姿を取って現れるとたちまち動揺して不同意に転ずることが度々起こるのも、それほど不思議ではない。基本的に「木の思想」を共有していない上に、強固な「時代の常識」が人々の意識の深層を支配しているからだ。“多数が不同意に変われば、前の決定を変えるのが当然”とする第一の問題は、実は「時代の常識」の支配下で、基本的な考え方、思想を共有していないという、この第三の問題がその基盤になっていたのである。

ご都合主義という批判は、“もたれあい社会”では、個々人が自分の言動に責任を持つ必要はないので無効である。前に同意していたとしても、不同意に転じた時点でその変更が多数を占めれば、ご都合主義こそがリアリティーを持つのである。
「時代の常識」に反する考え方、「木の思想」に根拠を持つこのプロジェクトが、「時代の常識」からの不断の抵抗にさらされたのは、むしろ当然だった。絶えず教職員の合意と理事会の決定によって民主的な手続きを踏んでことを進めてきた私が、非民主的、独裁、ワンマン、現実を見ない理想主義者などの非難を浴び続けてきたのも、ある意味ではあたっているかもしれない。
というのは、出発の時点からの教職員、理事会の合意、決定を盾にとり、次々と変転していく時々の多数派のリアリティー、すなわち“もたれ合い社会“の現実を徹底して否定し無視してきたからである。多数が「時代の常識」の下で揺れ動くリアリティーの前では、手順を踏んでの民主的手続きなど、物の数ではない。

屋根の小屋組み

藤田所長が、第一の門と教室棟の屋根の小屋組を鉄骨にしたいと、仕様の変更を申し出てきた。工期と手間がその理由である。木を使えば、それなりの大工と手間が必要となる。量が多いので、鉄骨にするのとでは大違いである。工事の各段階で繰り返されてきた、木か、金属かの問題が、屋根で出てきたのである。
「体育館や窓の場合は、木か金属かは見れば分かります。木にしたいとのお施主様からの希望があれば、工期と手間を工夫する意味もあるでしょう。しかし、屋根裏は外からは全然見えないんです。そのようなところを木にしたって意味はありません。ここは、鉄骨以外にはないですよ。」
大手ゼネコンの工事所長にとって、最重要の課題は工期と手間である。特にその両方に関わる手間は大問題で、木にすると時間がかかる上に大工によってはいくら時間をかけてもできないことがある。手間には、量と質の二つの側面があるのだ。機能と合理の追求で成り立っているゼネコンの立場で言えば、所長の論理は明快だった。
教室棟の屋根は切妻で、今日の住宅に比べれば可成りの急勾配である。雪国では、積雪の荷重を考えて滑りやすくするために屋根を急勾配にするが、ここでその問題はない。デザインの問題もあるが、屋根裏の空間を大きくすることで、保温、断熱の効果が得られる。
基本計画の段階で、冬は各教室に石油ストーブ、夏には、蔵書の保全のために図書館だけはエア・コンを入れるが、ほかは無しにすると決定していた。夏休みがあるので、最も暑い時期には学校はないし、このたっぷりとした屋根裏の空間のおかげで、教室棟の二階でも、勾配のゆるい、あるいはRC造の陸屋根に比べれば、はるかにしのぎやすいのである。初夏、初秋の季節には、窓を開放することで自然の通風を得られるので扇風機も不要。木造の管理棟、教員室棟、教室棟を散在させたので、集中方式の冷暖房システムは最初から無理だった。それでも、ウインドー・タイプの安くて取り付けも容易なクーラーの要望はあったが、予算の関係でなしにした。実は、屋外に突出する室外機の並ぶ光景が醜悪で悪夢以外の何ものでもなかったからだ。教室棟の屋根裏は断熱効果を得る上で、単なる屋根裏以上の重要な意味を持っていたのである。

この件で所長と議論するのは避けた。前にも述べたように、木か、金属か、というテーマは、合理の次元で進められる議論にはなじまない。感性と深く関わっているからだ。感性を抜きにして、合理の次元で議論をすれば、木に勝ち目がないのは、窓のサッシュの場合と同じである。この件では、民主主義?の問題も出なかった。仮に教職員のアンケートをとったところで、屋根裏に関心をもつものなどいないからである。
合理・機能の次元での答えになっていないことは百も承知で、所長には、「設計通り木にしてほしい。」とだけ答えた。当然議論の対象になると考えている所長にしてみれば、その議論がなくただ「木にしたいから木だ。」というのは、極めて理不尽に思えただろう。
常に感性を重視する設計者、施主側と合理・機能を旨とするゼネコンで長く仕事をしてきた工事所長との間の認識のずれが生ずる状況は、異なる言語で通訳なしに話をするのと似ている。感性や好みで仕事をしていたのでは、ゼネコンの利益は出てこない。所長の立場は、当然であった。所長は執拗に鉄骨を主張し続けたが、注意深く議論になるのを避けながらその提案を拒否しつづけた。
「思想の共存」というと、言葉の上だけではありそうに聞こえるが、木と金属の間に中間はないので、これがテーマになると、建設工事では相互の譲歩とか妥協の余地は全くないのである。所長はついに諦めて、「そこまで言われるならしょうがないですね。木でやりましょう。」ということになったが、表情には憤懣やるかたない心情がありありと見えていた。

工事完成後、たいていのことでは暗黙のうちにフジタを支持していた棟梁の住吉が、「鉄骨にしていたらひどいことになっていましたよ。」と、なぜ木にしなければいけなかったのか説明してくれた。高温多湿の本州で、屋根裏の鉄骨はたちまち錆びてしまうというのだ。その上、立ち並ぶ教室棟の屋根裏を狭い点検口から入って次々と定期的に点検するとかペンキで塗装することは、ペンキ塗装が日常生活に定着していない日本ではほとんど不可能なのである。
この件では、単に感性の問題ではなく、合理・機能の次元でも、木にすることが正解だったのである。

「見かけ」をめぐる日本の技術文明の問題

© 2018 Mao Matsuda

「見えない部分だから鉄骨にする。」という考え方には、「見かけ」を巡っての、日本の技術文明の問題がある。
今では古典に属するが、星野芳朗は、日本の技術文明批判として、日本と欧州の自動車産業を比較し、それぞれの考え方、ポリシーの決定的な違いを指摘していた。
欧州のメーカーが「良い車」をつくろうとしているのに対して、日本のメーカーは「売れる車」をつくるのが基本的なポリシーになっているというのだ。今でも、それが大きく変わってきたとは思えない。
「良い車」は手間もかかり大量生産に向かないが、「売れる車」なら量産が可能である。一九六十年代から七十年代にかけての、日本の「売れる車」の販売戦略では、性能、質とは無関係な「見かけ」に依拠して売りまくった。見えない部分では、金属にすべきパーツをプラスチックにする、流行と見るや単にカム・シャフトの位置を上にしただけでOHCと称する、割高の車を売るためにエンジンの回転数。圧縮比はそのままにして気筒容積だけ増やし、性能は大して変わらないのにスーパーとかデラックスと命名する。
他方、「見かけ」では、およそ性能とは無関係なもので売りまくった。一見豪華に見える安手の素材による内装、ボディーの側面を飾るクローム・メッキのサイド・ライン、前面のグリルを黒に塗装して、“精悍さ”を謳った「ブラック・マスク」というのには衝撃を受けた。当時、若者層にうけたと言う。
時速百キロが基準であれば、負荷も小さく、故障も少ないし、日本車の「見かけ」は豪華だ。誰もが比較的ゆっくり走る米国では、日本車の売り上げが急速に伸び、ついに販売台数世界一になったのは、米国での実績による。
見えない所でごまかす最近の事例に、マンション建設工事での“杭打ち”がある。岩盤に届いていない杭があったのが発覚し、その後次々と、マンションだけでなく公共施設でも、他のデータを流用した報告書のあることが報道された。住民の命がかかっていることを考えれば、杭打ちの偽装問題は、車に見かけどころの話ではない。

「見かけ」のゴマカシは桃源郷の恥

日本、本州の高温多湿の気象条件は、建築資材としての鉄骨の大敵である。屋根の小屋組の場合、外部と違って湿気の逃げ場がない屋根裏の鉄骨は、錆びが来るのも速い。感性の問題だけでなく、日本では「木」の小屋組が正解だったのである。
幸い、所長の協力で要請通りになって良かったが、ペンキが日常生活に定着していない日本では、暫くの間、木造のペンキ仕上げは避けるべきかと思う。「衣食足りて礼節を知る。」というが、ペンキ塗装は礼節に属していて、まだ衣食の位置は占めていないのである。外からは全く見えない屋根裏の鉄骨などに定期的にペンキ塗装の予算を計上するなど、日本ではまだ夢でしかない。
「見かけ」重視で見えないところをごまかすというのは、儲けが第一の事業ならあり得るし、又、実際にそうだったが、学校は稼ぎが主目的の法人ではない。木造低層を活かした簡素なデザインが好ましい第一の門と教室棟なのに、屋根裏だけをこっそり鉄骨にして「見かけ」は素朴な木造建築を装うというのでは、自動車産業以上に“タチが惡い“ごまかし”になる。いつまでも残る、桃源郷にとって、取り返しの付かない「恥」を避けられた幸運に感謝している。

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