用地開発許可を受けて、飯能の協和不動産三浦社長と32名の地主との間で、用地買収の本格的な交渉が始まった。これがまとまれば、後は、三菱信託を介して武蔵野校地を売却し、新キャンパスの建設工事に入ることになる。前途の見通しがはっきりしてきた。
それを待っていたかのように、元理事長の沖田が、1983年6月の理事会に2年ぶりに出席、公然と「盈進プロジェクト」に反対、入間への移転は白紙に戻し、武蔵野市の校地は売却せずに暫く様子を見るようにと、プロジェクトの中止を要求したのである。
既に動いているプロジェクトを今になって中止とは、あまりに乱暴な要求で中止は出来ないと、即座につっぱねた。ところが、示し合わせていたと見え、その後の評議員会で、前回まで全員一致でプロジェクトを支持していた評議員が豹変していた。評議員会の一部、同窓会評議員、大東文化大学からの学識経験者評議員らが、声高に、“移転反対”を叫び始めたのである。
大東文化大学の学長(当時)は元大西理事と親しく、プロジェクトに好意的だったが、この日突然反対側に変わっていた。沖田を中心に、一部の理事、評議員等の間でシナリオができていたのである。理事会の決定を無視しての中止などあり得ないし不可能だと説明した上で、入間の建設用地を取得した後に武蔵野校地を売却すると約束して、評議員会を終えた。
夏休みを利用して、大学学長を自宅に訪ね、プロジェクトは既に度々の理事会の決定を経て着々と進んでいる、今更中断などあり得ないと実情を説明し、議長あての委任状に署名してくれるよう頼んだ。大西元理事からの話が通じていて、彼は玄関で、議長に一任する旨の委任状に目の前で署名してくれた。
ところが、10月の評議員会では、この学長から別の委任状が沖田側の評議員に送られていたのである。これに添付されていた手紙には、議長宛の委任状は自分が不在中に事情を知らない夫人が勝手に出したものだと書かれていた。夫人に彼の署名が出来るわけがないことだけ考えても、子供騙しにもならない言い訳だが、彼等がいかになりふり構わずプロジェクトを阻止しようとしていたかが伺える。委任状の件は、大きな問題にはならなかった。いずれ、評議員会は意見を述べることが出来るだけで、採決権もない。評議員会には評議員理事の選任権があるだけだ。いくら騒いでも、ことを決めるのは不可能だったのである。
沖田等の目的は、武蔵野校地売却を自分の手で扱い、これを高値で売ることによって億単位の巨額の私利を得ることで、これに寄生しようと、一部理事、同窓生等が加わって“移転反対”に動いたのであった。