1981年4月末、アレグザンダーと盈進学園理事長鈴木薫との署名で、設計契約が締結された。設計事務所は、学園内の一階にある教室を提供することになった。
「盈進プロジェクト」が、スタートしたのである。
署名を終えて、アレグザンダーは、「小さな美しい村を創る。」と約束した。
学校は、建築として“住まい”に最も近いと考えていたので、この挨拶は嬉しかった。村は、“住まい”の集合である。求めてきた“どこか覚えのある懐かしい空間”はいたるところにあるはずだからだ。設計者の起用は的を射たのである。
本の題名は“当たり前の手法”(Ordinary Way)にしたい
この後、若手建築家、ジャーナリストらとの小集会が開かれた。
アレグザンダーへの質問は、「使用者参加の原理」に集中し、彼は、建築にリアリティーを與えるための手段なのだと説明していた。伝統的な日本の建築がリアリティーを持って生きた建築になっているのは、終始、施主と棟梁との間での協議でことが進められるという伝統的な手法が取られていたからである。施主の実質的な参加が、建築に生命を与えたのである。
私に対しては、「これだけ優れた建築家が多数いるのに、何故日本人の建築家を選ばなかったのか?」という疑問が出された。第一に、木造低層を主体にする新キャンパスを建設するのに、施主と建築家が絶えず協議していくという伝統的な手法を取りたかった。彼はこの点での考え方を完全に共有してくれたからだと答えた。第二に、このような伝統的な手法を取る近代建築家はいない。日本には近代建築家しかいなかったのだと説明した。
彼が世界的に有名な建築家であることは、今回の起用とは全く無関係だと強調した。事実、私自身、知人に教えてもらうまで、それを全く知らなかったのである。
翌日、アレグザンダーが私の部屋に来て、話したいことがあると言う。
「昨日の集会で、“自分を起用してくれた理由が、知名度と全く関係なく昔ながらの伝統的手法で建築を進めるとの考えを共有していたからだ、”と説明してくれた。こんなに嬉しかったことはない。このプロジェクトが完成したら本を出す予定だが、そのタイトルは、“当たり前のやり方”にしたい。」と言うのである。
これを伝えることで、自分の心からの感謝を伝えたい、との言葉から、彼の誠実さがよくわかった。有名人にありがちな、権威を振りかざすような姿勢は一切見られない。
彼が世界的に有名な建築家だということは、彼にとっても私にとっても無意味だったのである。彼は、ただ、建築での考え方を共有している施主の希望に応じて良い建築を提供したいとだけ考えていた。私も、あっさり言えば、彼が有名かどうかなどはどうでも良かった。「使用者参加の原理」を実践してくれればよかったのだ。
建築についての考え方を共有していること以上に、施主と建築家との間の強い信頼関係を保証してくれるものはないと思う。