第 一 章(3) 施設見学の旅と建築関係書籍の乱読

準備活動は、「施設見学」の旅と「読書」である。

先ず、当時話題になった学校建築等の施設見学を始めた。
建築家に依頼するのに最も良い方法は、施設見学の過程で希望に合いこれが良いと思った実際の建築があれば、それを建築家に提示することだという。知人のアドバイスである。建築家は、施主の要望を実物を通して具体的に理解できるし、施主側も求めるイメージを言葉で示すのではなく実際の建築で伝えることができる。
学校に何を求めたいのかはあっても、建築の知識がない素人にとって、初めは五里霧中である。見ながら学んでいくしか無く、先行きの見通しは全く立たなかった。

北海道から九州に至る当時話題になっていた30 箇所余を越える学校建築、体育館、図書館、ホール等の公共施設のリストを作成し、施設見学の旅を始めた。国外では米合衆国コネティカット州ニュー・ヘイブンの高校、バージニア州リッチモンドの高校を訪ね、南部イングランドでは、昔の領主の館を利用したパブリック・スクール二校を見学している。

他方、読書では、求めるイメージに触れている部分を探して、専門書も含めて建築関係の本を手当たり次第に乱読した。建築家を志しているのではないから、専門書であっても苦にはならない。求めるものがなければ、次の本に移ればよいだけの話だからだ。

気がついたことがある。建築家は文章が苦手らしく、一冊にまとまっている著書はほとんどが、評論家あるいは評論家でもある建築家が書いたものである。
具体的な例で言えば、朝日新聞の文化面を担当していた評論家の松葉一清とか、建築家では磯崎新、宮脇壇などがいた。松葉や宮脇あたりは読者層を普通の市民としているのでわかりやすいが、磯崎になると一回読んだだけではよくわからない。特に若手の気鋭の建築家の書いたものはわかりにくい。一回読んでわからないものは、著者の読ませるための力量が不足しているものとみなしてどんどん飛ばし、途中でやめたりもした。

比較的読みやすいのは建築史に多く、ヨーロッパのロマネスク、ゴシック建築、広場についての話などは面白かった。興味をそそられながら、知識を身につけることができたように思う。近代建築については、ル・コルビジェの「輝ける都市」を手始めに国内外の著書をあさった。自然の素材という制約を受けながら時に前衛的な冴えもみせるヨーロッパの旧来の建築を理解すると同時に、鉄、コンクリート、ガラスという素材を得て、自然の素材からくる造型上及び規模の制約から完全に解放された近代建築の夜明けがいかに画期的なものだったかを学んだ。その場に居合わせなくても、近代建築の夜明けに立ち合った日本の建築家、丹下建三、前川国雄らの感動を共感できるような気がしたものである。
プロを目指すのでなければ、建築史、特に伝統的な旧来の建築と、それと決定的に手を切った近代建築の夜明けを学ぶこと、あるいは当時の建築家の感動を推測することは、尽きせぬ興味を呼び起こしてくれた。

<p?> それと並行して進めていった学校建築等の施設見学は、言ってみれば、読書で学んだ近代建築成立以後の流れをたどるものとして理解できる。近代社会を推進してきた科学技術文明と近代合理主義は、その普遍性によって世界を覆ってきたが、近代建築も正にその道を着実に歩んできた。施設見学はその軌跡をたどる旅でもあった。この意味では読書は施設見学に大きく貢献していたといえる。

1)施設見学・覚えのある懐かしい空間を求めて

バブルの時期に、地方公共団体始め民間企業は、RCの箱物の建設に狂奔した。その結果は山奥にまでいたるところに乱立している。学校建築もその時流に乗り、日本全国の隅々までRCの近代建築による校舎が建設されていった。擬洋様式の木造2階建ての学校は、見事なくらい一斉に姿を消してしまったのである。いくらファッションの世界大国とはいえ、学校建築における短期間の劇的な変化はいささか異常だったが、これについての論評はほとんどない。当時、学校建築での近代化は当然で、むしろ遅きに失したという社会的な共通の認識があったのだと思う。論評するような特別の現象ではなかったのである。もちろん、リストにある施設はことごとくRCの近代建築だった。
学校見学に求めていたのは、“どこか覚えのある、懐かしい空間”だった。そこで一日の学校生活を送る落ち着いた空間である。

施設見学に先立って、米合衆国シカゴのオーク・パークにあるフランク・ロイド・ライト初期の建築群を見学したが、幾つかの住宅でこの懐かしい空間を体験し、このような空間を持つ学校をほしいと考えた。後にグッゲンハイム美術館等で知られる前衛的な近代建築とは違う、初期のコロニアル様式の住宅である。微妙に段差のある床をたどると、誰もが共有できる伝統を踏まえた懐かしい空間が次々と現われる。この手法の大掛かりな具体化が、当時の東京の帝国ホテルであろう。

ユニークな創意と工夫

北海道のある高校では、広い教室と廊下の空間の採光のために、工場でよく使われているガラス張りの鋸屋根を応用していた。工夫の一つではあるが、採光の方法は多様だ。工場用の屋根を学校に使う必然性があるとは思えなかった。

印象に残ったのは、岩手県立体育館の構造だった。屋根を支えているコンクリート打ち放しの斜めの太い梁が、遠くからでも力強く見え圧倒される。残念だったのは、コンクリートの剥落がひどく、対策として、肝腎の柱をステンレスで巻いてしまったことだ。ギラギラ輝いている金属の存在感が前面に出ているだけで、建築家の期待したであろう打ち放しの迫力はない。この対策が建築家の了解を得て行われたのかが疑問だった。

山形県の上の山市立小学校では、階段の踊り場の上に、学校建築としては異例のステンド・グラスが嵌められている。陽光を通してきらめく鮮やかな色彩を児童は喜ぶはずだ。彼等と共有できる視角で学校建築を見ている設計者の稚気が好ましかった。
なお、このような例は他にいくらでもあるのだが、思い切り広く取ったグランドは、児童がそこにいない時間、学校全体に荒涼とした砂漠のような感じを與えるのではないかと思われた。

同志社國際高校では、玄関の雰囲気を台無しにする醜悪な下駄箱群の問題を解決するために、来客用と生徒用の玄関を別にしていた。しかし、生徒あっての学校であることを考えれば、これを解決とは言えないであろう。上下足を替える習慣になっている日本の学校での永遠の課題であり、未だ解決策は見つからないようだ。美醜とは別に、盗難を防ぐための頑丈な鍵と、忘れた生徒のためにロックを切る大型のカッターを教員室に用意しておくという面倒な問題もある。

同志社短期大学の図書館は、半地下式になっていて、地表に樹木を植え庭として利用していた。敷地の緑を確保しながらの有効利用というアイデアは面白いが、他の校舎も含めて一定の広さがないと、半地下式がいつも有効とは思えない。蔵書が増えて来るとスペースの心配もあり、利用者の立場からは、基本的に重要な読書室、机のあるブースなどを設置する余裕がほしい。

静岡県沼津市にある加藤学園の幼稚園は、中に入るとユニークな空間に園児のための細やかな工夫がされていて、設計者の児童への優しい思いやりが好ましいが、外観がひどかった。ペンキ塗装の仕上げになっているのだが、おそらく予算を計上していないのであろう、塗装が剥げてみすぼらしいのが残念だった。日本ではまだまだペンキ塗装が日常生活には定着していないのである。
大分県立図書館は、入り口のアプローチから設計者の強い意志を感じさせる。足元だけに弱い照明がある薄暗い廊下を通って、突然明るい読書室に入る。この鮮やかなコントラストが印象的である。しかし、偶々一人の女性がこの暗い廊下で転倒、ヒールを折ったのがきっかけで、廊下は煌々とした天井からの照明ですっかり明るくなっていた。設計者のアイデアは台無しになっていた。また、吹き抜けの空間に一本コンクリートの太い梁をブリッジとして架けてあり、それが通路であると同時に吹き抜けの空間に強い緊張感を与えていたのだが、通るのに危険だという配慮から、ブリッジの両側を手すり付きのプラスチックの板で囲ってしまった。吹き抜け空間の緊張感は消えてしまったのである。
岩手県立体育館もこの大分県立図書館も、改修にあたって、設計者の考えは全く無視されているように思えた。

東京町田市の日本女子大学付属中・高等学校と熊本県南阿蘇の県立高校は、それぞれ広い空間を必要に応じて可動間仕切りで分割する、所謂オープン・スクールの典型だ。同時に、教科別のゾーニングを具体化している。一時、オープン・スクールが流行し、文部省(当時)も学校のオープン・スペースに補助金を支給していたが、その根拠ははっきりしない。
見学者への説明で、対面授業の廃止と教科別クラス編成が強調されていた。急進的な設計者は教室と廊下の境の壁を撤去するかどうかが分かれ目だと主張したりしていたが、対面授業を重視し、ホーム・ルーム制を取っている学校にとっては何の参考にもならない。大学も含めた多くの学校では、未だに対面授業が普通であり、普通高校で、教科別クラス編成が不可欠だという必然性などまったくないのである。明るく広い空間で向かい合わせに2つ之授業を行っているオープン・スクールが千葉県にあったが、ダブって聞こえてくる教員の声はどうしようもなかった。
オープン・スペースと可動間仕切りについて、アメリカのビジネスの世界では、それがごく普通になっており、この点で日本の学校は遅れているとのコメントがあったが、ビジネスの世界と学校生活を同じレベルで比べるのは無理だと思う。
日本女子大学付属の見学で、広い空間での複数授業は、教員、生徒の声が錯綜するので困らないかとの質問に対して、これからの時代は町の騒音などに負けない強い生徒を育てたいのだとの答えに仰天した。一時のブームはあったが、それも去った。今では、オープン・スクールを新たに建設する動きはない。

文化遺産の継承を欠いた思いつきの近代建築

あしかけ三年間に国内で30余の施設を訪問したが、言うまでもなく、後に触れる愛媛県八幡浜市の日土小学校をのぞいてすべてRCの近代建築だった。
共通しているのは、徹底した機能主義である。学校で必要な諸機能に対して、RC造の良さであるデザイン面での建築家の“自由な造型”が対応しているので、単なる機能の系としての機械的な全体にはなっていない。諸機能の系は、個々の建築家のイメージによるデザインで見事に具体化されていた。
しかし、鉄とガラスとコンクリートから来る無機的な雰囲気は、造型だけではどうにもならない。豊かさが無い、生きていない、生命感が感じられないのである。どこか覚えのある懐かしい空間は、得られなかった。
コンクリートの寿命を考えれば、これらが世紀を越えてのクラシックになることはあり得ないが、文化遺産の“継承・発展”として成立するクラシックの条件も備えていない。“継承”の面が欠落しているからだ。科学技術文明と合理主義の下で、過去の伝統と切れたところに成立してきた近代建築に、人々が共有してきた“既視感”を求めることは無いものねだりだったのである。
近代建築の学校、RCの箱では、違いは個々の建築家のイメージの違いになる、求められる諸機能に応じてそのイメージを具体化するデザインを競うのである。過去の伝統からすっぱり切れているので、既視感としてわれわれが持っている“覚えのある懐かしい空間”は無い。デザインは、素材の制約から解放された個々の建築家のイメージ ― 思いつきに根拠を置くだけである。思いつきコンテストと言っても良いかと思う。
学べることは多かったが、これがという学校のイメージは得られなかった。「求める学校のイメージをつかむには多くの施設を見ること・・・」というアドバイスは、無効だったのである。近代建築の森の中で、道を失ったと言って良い。

アメリカ合衆国では、話題になったコネティカット州ニュウ・ヘイブンの高校を訪ねた。当時、東部では、学校での暴力とドラッグが問題になっており、地方の都会でも、とにかく生徒を屋内に閉じ込めておくのが最善の解決策だった。この高校ではグランドもほとんどないので、外には出ない。屋内には屋内体育館、視聴覚器具が整備され、階段教室など機能的には問題ない。
昼休みになるところだったが、図書室は閉鎖されていてその前の段差のある入り口に座って若い女性の教員が弁当を取っていた。聞くと、混乱を避けるために図書室はそこを使う実習以外は、いつも閉鎖されているので、乱暴な生徒が事を起こさないように見張っているのだという。これでも前に勤務していたニュー・ヨークの高校に比べれば生徒もおとなしく遥かに楽だと苦笑いしていた。

バージニア洲リッチモンド市の高校。朝スクール・バスの駐車場でバスを降りると,そのまま校内に入れる。後は下校するまで終日建物の中に居て外には出ない。帰りは又バスに乗れば良いので、雨の日でも通学に傘はいらない。
校内は、エア・コンで快適な温度を保っている。屋内体育館、食堂等諸設備が整っているので、外に出る必要はないのである。
考えてみれば、米合衆国は、科学技術文明の最先端を行く世界である。人工空間で終日過ごし、自然と全く隔絶された学校はその行き着く先の典型であろう。大都市の荒れた外部社会の影響から生徒を遮断し屋内に囲い込むのが最も容易な方法だとはわかるが、都会とは言えリッチモンドなどの地方都市では,学校の周囲には未だに豊かな自然が残っている。近代建築の学校が行くところまで行ったのだなという強い印象を受けた。

他方、地方の大学、高校では、緑の濃い敷地に昔ながらの煉瓦建ての校舎が散在している。所謂ニュー・イングランド風の建築は、北西部でもよく見られた。人工空間のコンクリート・ジャングルは、面積が広大で自然に恵まれているアメリカにふさわしいとはとても思えなかった。

ショックを受けたのは、南イングランドのパブリック・スクール二校を訪れた時だ。いずれも、旧領主の石造りの館を利用した校舎だが、住まいであった建物であるだけに、内部に入るといたるところにどこか懐かしい空間があり、これなら落ち着いて勉強できるなと感銘をうけた。
何より驚いたのは、広大な敷地である。館の前には、英国特有の芝生の斜面が広がっている。そのうちの一つでは、芝生の庭をくだった先に森があり、その中を幅4-5メートルほどの小川が流れていて、なんと水門まであったのだ。たとえ田舎でも、日本の学校に敷地の中に森があり水門を備えた川が流れている例はない。古いものを残す英国文化の伝統が見事に活きていて羨ましいかぎりだった。旧藩主の屋敷跡をそっくり再利用した学校の一つくらい日本にあっても良さそうだが、明治以降、古いものに見切りをつけひたすら合理主義と技術文明の推進する近代化=欧米化に走ってきた道筋に、そのような懐古、感傷のゆとりはなかったのである。
この時痛切に感じたのは、学校の敷地は広ければ広いほど良い、自然が残されていればさらに良い、ということだった。高層化のコンクリート・ジャングルの構想が揺らいだのである。決定的な転機になったのは、愛媛県八幡浜市の日土小学校の訪問だった。

2)蜜柑山に隠れた木造校舎―日土小学校

八幡浜はのどかな港町で、北九州東海岸の臼杵とフェリーで結ばれている。明るく開けた谷沿いに登っていくと一面の蜜柑山、収穫を間近に控えたオレンジ色の実が木の緑に映えて南国の豊かさを感じさせてくれる。日土小学校は、谷の最奥の部落を仰ぐ蜜柑山の中腹の斜面にひっそりと佇んでいた。松山市在住の建築家松村正恒の設計による体育館と一体の木造2階建て校舎である。
ここで初めて、国内の施設見学では見出せなかった“どこか覚えのある懐かしい空間”に接することができた。木という素材の持つ感触の素晴らしさを、この小学校で改めて体験した。夏休みの八月、生徒は居ないが、事前の連絡で校長、教頭はじめ数人の教員の方々の話を聞くことができた。扇風機の回る教員室でセミの声に聞き入っていると、一昔前に戻ったようで、言いようのない懐かしさを感じた。木という素材に包まれている落ち着きである。

教頭に校内を案内していただいた。学校とは? 小学校とは? という根本的な問いかけに対する答えを確かめながら、教育での子供たちと自然との関わりを大切にする姿勢が、いたるところで具体化されていた。
好奇心に満ちて絶えず動き回っているのが常態である子供たちに、大人のゆっくりした歩き方を強要することは出来ない。廊下の幅は、走っても良いように、すれ違う余裕を見てやや広くしてある。裸足で運動場を走り回るのは良いことだ。校舎の入り口に足洗い場が用意されている。児童の身長、歩幅、動き方を考えて、階段の寸法、ロッカーなどの建具の造作が決まる。教室の空間は風通しが良く、採光も十分、真夏なのにむしろ涼しい。
足洗い場は、長く放置されたままのようだった。聞くと、以前は児童が裸足で運動場を走り回っていたので足洗い場が必要だったが、足を痛めてはいけないとの父母の圧力で、裸足が禁止になり不要になったのだという。「時の流れには勝てません。」と教頭はいかにも心外そうだった。裸足の禁止は、このキャンパスを創り出した“小学校らしさ”を求める姿勢そのものの解体につながりかねない。使われないままに打ち捨てられていた足洗い場は、状況の持つ深刻な意味を無言で語っていた。
教頭は、「いずれ使うこともあるかとそのままに保存してあるのですが、ま、だめでしょうね。」と呟いておられたが、“時の流れ”が押し流していくのは、足洗い場にとどまらないだろう。キシキシきしむ板張りの廊下の音が嫌われれば、プラスチックのタイルを張ることになるだろうし、自然の通風や教員室の扇風機はエア・コンに取って代わられるだろう。板張りの廊下や自然の通風を大切にしたいと思うのは、現実を自覚しない郷愁と感傷でしかないということになるのだろうか。このような“時流”は、どこかおかしいのだと思う。日土小学校の良さがいつまでも大切にされていくのを祈らずにはいられなかった。

何よりも嬉しかったのは、木という素材が与えてくれるくつろぎと落ち着きである。
「よくほかの学校で研修会があって参加するのですが、どこへ行ってもコンクリートの校舎で心身ともに疲れるのです。終わってここへ戻ってくると、心からホッとします。やはり木の良さなのでしょうね。」
校門から振り返ると、明るい蜜柑山に包まれた木造校舎は、周囲の自然環境に溶け込みその一部になっていた。

3)高層化計画はやめよう―広い敷地での木造を考える

このとき、はっきりと、新しいキャンパスは木造にしようと決意した。高層化のコンクリトート・ジャングルはやめることにしたのである。「敷地は広ければ広いほど良い」し、」「素材は木にしよう。
それまでは、狭い敷地だから高層化は避けられないと思い込んでいたのである。学園は武蔵野の地で小学校から出発したという歴史を持っており、ここに長く勤務している間にこの地を離れるなどとは考えたこともなかった。
しかし、日土小学校の訪問で、日本の伝統的な建築素材である木の良さを再確認した。南イングランドのパブリック・スクール見学では、敷地は広ければ広いほど良いと痛感している。もちろん木造の高層化はあり得ないし、そうとなれば、広い新天地を求めそこに新キャンパスを建設しようという構想に導かれるのは、必然的だった。
施設見学の旅で近代建築にどこか覚えのある懐かしい空間を求めるのは不可能だとわかってから、木を素材にするなら、施主と建築家が絶えず協議しながら建設を進めるという伝統的な建築の手法を取るべきではないかと考えるようになっていた。

一つ問題が残ったのは、近代建築をやめるといっても、我々がその中で生きてきた合理主義と技術文明に見切りをつけるのはなかなか容易ではなかったことである。これについて、背中を押してくれたのは、ピーター・ブレイクだった。
彼は、「近代建築の失敗」(鹿島選書)で、話題になった近代建築の実例を挙げながら、そこでの意図―例えばゾーニングがどのように失敗しているかを丁寧に説明している。考えてみれば、近代社会を推進してきたのは合理主義と科学技術文明だが、その根本的な原理の適用である近代建築の行き詰まりは、実は、近代社会そのものの行き詰まりと考えられる。あっさり言えば、近代社会は、すでにその役割を終えているということになる。目の前が開けた。近代建築の拠って立つ、合理主義と科学技術文明にいつまでも頼っているべきではないのかも知れない。武蔵野市の敷地にこだわるのをやめれば良いのである。目から鱗が落ちた。
新しい広い新天地を求めて、そこに新キャンパスを建設することだ。普遍性によって世界を覆うにいたった合理主義と科学技術文明にもこだわるべきではない。先ず新天地を見つけ、その地域の自然と文化を尊重したキャンパスを建設する。普遍性ではなく、地域特有の文化を求めるのである。

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