学校の配置計画には、ほぼ決まったパタンがある。敷地の一隅、あるいは辺に建物群を置き、残りをグランドにあてるのだ。屋内、屋外の教育プログラムにそれぞれ必要な空間を与えるには、建物群をまとめるのが敷地の有効利用になるし、残りの敷地は分断しないでできるだけ広くグランドに使うのである。このようなパタンは、こうして、合理・機能にかなっている。
しかし問題は、合理・機能と離れたところに出てくる。休み時間でグランドが児童・生徒で賑わっている、あるいは、体育授業に彼らが参加して動き回っている時には、いかにも学校らしい光景が現れる。学校の活気を目で見ることができる。
困るのは、グランドに誰もいない時である。シンとして静かなというと聞こえは良いが、はっきり言えばそこにはガランとした空虚な空間が出現する。白昼、全く人気(ひとけ)のない広漠としたグランドは、学校に荒涼とした砂漠の雰囲気を与えるのだ。広いグランドに人がいないというだけで、突然、あの活き活きとした学校が、空虚な砂漠に変貌してしまう。これは、感性に関わる問題なので、合理・機能の次元ではどうしようもない。
グランドを含めて屋外運動施設は学校にとって不可欠だし、そのための敷地も広いほうが良いが、人のいないグランドで学校に「砂漠」の雰囲気を与えることは、何としても避けたかった。アレグザンダーは、「砂漠」問題を完全に理解し、配置計画でこの問題は解決出来ると請け合ってくれた。答えは、あっさり出た。グランドを初めとする屋外運動施設が見えなければよいのだ。「砂漠」が見えなければ、「砂漠感」を持ちようがない。
二つの門と玄関道を決定した時に、事実上従来の定番になっている配置計画は採用できなくなっていた。解決策は、敷地の中央に建物群を置き、それを取り囲むように屋外運動施設を配置するという配置計画である。その上で、注意深く、建造物、樹木等によって、それぞれの屋外運動施設を見えないようにすれば良い。
配置計画ではキャンパスへの出入口の位置を決めるのに時間がかかったが、それを決めてからは,第一の門から玄関道を経て正門、広場へというアプローチを前提に、それぞれの建物の配置は自然の流れとして無理なく決まっていった。
サッカー場は、玄関道を挟む板塀の西側、四面のテニス・コートはその反対の東側につくる。いずれも、玄関道からは板塀に隠されて見えない。外周を長い板塀で仕切ってあるので、外からも見えない。「砂漠」問題は、ここですでに解決されている。
カフェテリアからゆるく体育館へ下っていく散歩道の右手に、屋外のバスケット・ボール・コートとバレー・ボール・コートを設置したが、道に沿って植えられた木立ちが、視界を遮っている。それに、左手の明るい芝生と池の景観に目を奪われて右のほうを見ないという、心理的目隠しの効果も予想される。多目的ホールを南側に抜けると、急な崖との間に空き地があって、北側を武道場が遮っている。ここをネットで囲んで、ハンド・ボール・コートにした。これに重ねて、アンツーカーで斜めに三レーンの100メートル走路を設置できる。
こうして、屋外運動施設はいずれも塀、木立ち、建物によって、キャンパスを訪れる人々の視界から遮られることになった。外の道路からは、木立の緑に包まれた建物と瓦屋根の連なりが見えるだけである。人がいないことで屋外運動施設が学校に与える「砂漠感」の問題は、アレグザンダーの配置計画によって見事に解決された。
開校の年の八月、九州の教育関係者のグループが見え、いつも通りのキャンパス・ツアーを終えてから質問を受けた。一人の女性の先生の質問がうれしかった。
「色々と考えられたキャンパスであることはよくわかりましたが、これだけ敷地が広いのに、屋外運動施設がないのはどうしてですか?天気の良い日に屋外で運動を楽しめないのでは、学校として考える必要があると思います。」
それまでこのような質問がなかったが、この方と同じ疑問を感じながら質問するのを遠慮されたのか、あるいは、多くの場合ほかのことに関心が集中していて屋外運動施設にまで注意を払わなかったという事情があったかと思う。
玄関道をそのまま歩いて広場に入れば、サッカー・コートとテニス・コートが見えないのは当然だが、キャフェテリアから体育館へ下って行く途中、この方が、右手のバスケット・ボールとバレー・ボールのコートに全く気が付かなかったのが殊の外うれしかった。お聞きすると、天気が良かったせいもあるが、左手の芝生と池の景観が素敵だったので右は全く見なかったのだそうだ。
お帰りになる前にすべての屋外運動施設をご案内したが、期待した心理的目隠しが有効に働いたのを確認できて、最高に幸せな一日だった。