木と鉄骨の対立
実施設計の終了後、アレグザンダーと大手ゼネコン五社の工事事務所長候補とのインタビューを経て、彼は理事会にフジタを推薦。理事会の決定で、伝統的な手法での工事の進め方にできるだけ協力することを条件に、フジタが施工を引き受けることになった。
ユーザー参加の原則に基づき施主とアレグザンダーは共同で設計作業を進めてきたので、両者の間に大きな意見の対立はなかったが、フジタからは、次々と問題が提起された。最も大きな問題は、体育館だった。
木造大構造の体育館は、木を主体とするこのキャンパスの象徴である。アレグザンダーもその構造と設計作業には、バークレーで構造担当のスタッフとともに、ユニークで美しい体育館にしようと精魂を傾けていた。まさかこれが問題になるとは思わなかった。
フジタのプリンス藤田一憲は、まず、このような大構造の木造建築は今日では不可能だと一発噛ませた上で、鉄骨造にすべきだと強硬に主張し始めたのである。設計作業は、大講堂を除いてすべて木造ということで完了している。施工の役割は、図面に従った工事を進めることではないのか。起こりえないはずの問題が起こったのである。
初めは、とんでもないと、軽く一蹴した。驚いたことに、フジタは引き下がらない。逆に態度を硬化させて、理事会で直接説明させてくれと言い出した。このキャンパス工事を無事に成功させたいからこそ、なぜ木造体育館は無理なのかを理事全員に話し、理解を得たいと言う。
実施図面はすでに理事会の承認を受けて決定済み、その図面に従って工事を進めるということで理事会からの委任を受けている以上、その決定に反することは認められないとはっきり拒否した。フジタはそれでも執拗に理事会での説明を要求し、これを認めてくれなければ工事を始めないと言い出した。
1985年4月開校という、絶対の工事期限がある。協力してもらう施工業者の選択に半年近い時間と手間をかけ、ようやく工事にかかろうとしている時に、あり得ない問題が出てきた。「勝手にしろ。施工業者はいくらでも・・・」と言えないこちらの弱みを承知の上で、チキン・ゲームを仕掛けてきたのである。
まさか一度理事会で正式に決めたことが覆ることはあるまいと、心外ではあったが、フジタに理事会での説明をさせることにした。
フジタの説得で鉄骨の大合唱
プリンスが説明を始めた。予算・工期の両面を検討していくと、木造の体育館はリスクが大きすぎるというのだ。どのゼネコンもこのような木造大構造の経験は無い上に、莫大な量のしかも大口径の木材集めから、面倒な工法の検討、職人の技術などを考えると、何が起こるか予測できない。従って体育館を木造にするなら工期の保証も難しい。現に、戦後三十数年、このような木造大構造はただの一例もないではないか。
鉄骨なら、経験もノウハウもある。耐久性・機能性とも万全だし、完成期日の保証もする。
もちろんコストもずっと安くなる。単なる好みで、木にするリスクに賭けるのは無謀である。理事会としてあえてそのような危険に踏み込む覚悟があるのか冷静に考えてほしいと、論旨は理路整然としていた。
表現は穏やかだが、今の世の中で木の体育館を建てたいなど、とても正気とは思えない、趣味・道楽は勝手だがもっと現実を見るんだなと、公然たる脅しをかけてきたのである。施主に対してこのような言い方もするのかと感心した。
「日本の建築の実態を知らない外国人の建築家〈アレグザンダー〉を起用し現実を見ないで勝手な夢を描いている夢想家〈私のこと〉の行き方と、長年の実績を持つ大手ゼネコンの現実的で安心出来る提案があります。さあ、どちらを取るのですか?答えは明らかではないですか。」と理事会に迫ったのである。
このような比較は、たいてい見当外れだが、プロが居直るとアマチュアは脅えるのが常だ。「素人は静かにしていろ、黙ってプロのいうことを聞くきくものだ。」という恫喝は、結構効くのである。理事会の流れは、藤田の思惑通り急速に鉄骨へと傾いていった。採決こそしなかったが、一転、理事全員が私を説得し始めたのである。
話は漏れる。教職員の多くも、木造主体のキャンパスは良いにしても体育館は鉄骨で良いではないか、耐久性、機能性から見ても鉄骨が優れていると言い始めた。フジタが背後で教職員の集会でも開いているのではないかと疑いたくなるくらい同じ発言、「鉄骨」の大合唱が始まった。
四面楚歌、孤立無援で、有効な策もない。「朝令暮改」の戒めを説いても、「それがどうした?」と言われるだけだ。皆が賛成して決めたのではないか、と自省を促しても、状況が変われば方針も変わるのは当たり前だとの“ご都合主義”の前では、決定、約束、契約の尊重などメじゃないのである。これでよく民法が機能しているものだ。建設工事の総責任者として、二,三日の猶予をもらった。
深夜の電話で逆転のトライ
策もないままその猶予もなくなり、いよいよ諦めるしかないなとほとんど断念しかけていた時、真夜中の午前二時に、アレグザンダー起用について終始支援し、激励しつづけてくれていた石本建築設計事務所の浦林亮次専務から、電話がかかってきた。
建築の世界は思ったより狭い。フジタが鉄骨の体育館を主張しているようだが、どうなっているのかと聞かれた。状況を詳しく説明し、やむを得ず諦めようと考えていると伝えると、絶対に断念してはいけないと言う。
「今これを断念したら、あなたが今までやってきたことはすべて水の泡ですよ。最後まで頑張って、木造の体育館を完成させるべきです。それが、あなたのやろうとしていることではないですか。」
思わぬ時に、強硬な支持者が現れた。有名、無名を問わず、一人でも支持者がいると自信の漲るのが常だったので、世界が一変した。孤立どころか、百万の味方が登場したのである。早速、プリンスに電話して、翌日、東京西荻窪の「こけし屋」二階で会うことにした。
彼は、この何日か学校でものも言わずに考え込んでいる私の状況を承知していたらしい。当然、無条件降伏をするだろうと予想していたので、あくまで木造体育館は変更しないという前にもましての強硬な姿勢は青天の霹靂だったようだ。その日の明け方に、強力な支持者からあくまで木造を通すよう激励の電話を受けていたことなど知る由もないので、彼が当惑するのも無理はない。
議論はなし、とにかく絶対に木の体育館を建ててくれ、土下座してでも頼むと、床に土下座して頭を下げた。生涯を通じてただ一度の土下座であった。
さすがに彼は慌てて、「お施主さんが土下座など勘弁してください。」と私を立たせ、「そこまで考えておられるならやりましょう。」と引き受けてくれた。危機一髪だった。木造の体育館は、幻に終わるところだったのである。
施工のフジタが同意した以上、正式な決定を済ませている理事会も、木造に異議を唱えていなかった教職員も問題にしようはなかった。形式的には理事会はすでに木造の体育館で決定している。ただフジタの説得に対して建設担当の責任者である私が回答するまでの猶予をもらっていただけである。理事会は正式には木造体育館を決定したままなのであった。
実際にはフジタが鉄骨の提案をやめ、私の要望どおり木造体育館とすることを最終的に引き受けたので、問題はそこで解決した。形の上では、鉄骨造を提案したフジタがそれを撤回したのである。
誰もが、狐につままれた思いで事態の急変を理解できなかったようだが、背後の実態を知らなければわかるはずがない。木の体育館の生みの親は、浦林亮次である。
体育館のサイズと建物群の調和
体育館の設計について、体育科の教員から出された第一の問題は、サイズであった。バスケット・コート一面は取れるが、体育館の両側の幅を二メートルずつ広げれば、バレー・ボール・コートが二面取れるという意見である。
第二は、そのままじかに腰掛けられる階段式のギャラリーが、片側しかない。両側に作るか、いっそいらないからその分をバレー・ボール・コートに回したいというのである。
二つの問題とはいうが、焦点は、バレー・ボール・コートを二面ほしいということだった。倉橋治校長〈当時〉も、体育科の要請は当然のことだとし、その方向で解決したいと強く主張していた。
バークレーにいたアレグザンダーの回答で、教員側は騒然となった。
「両側を二メートルずつ広げたいとのことだが、そのように変更すると、配置計画、基本設計をすべてやり直すことになる。今からさらに六ヶ月かかるし費用の追加も必要になるが、それよりも「1985年4月開校が条件ならこの変更は不可能だ。」というのだ。
たかが四メートル幅を広げるだけなのに、なぜそのような大掛かりな変更になるのか?各建物、施設の面積配分では、必要な面積さえ削減しているのに、片側だけのギャラリーに固執しているのも納得出来ない、“使用者参加の原理”は、どこへいったのか?
要望を繰り返したが回答は変わらない。
「電話での説明は難しい、こちらへ来てもらえばすぐ納得してもらえると確信している。ギャラリーの件もきちんと説明する。」
施主の要望には、かなりの無理をしても対応してきた彼の姿勢はよくわかっていたが、譲らないとなると梃子でも動かない。そのような場合には必ず理由があって後でわかるのだが、会うまでは不安で、機内では一睡もできなかった。
学園側からの要望を詳細に説明し、これが通らなければ帰国できないと付け加えた。彼は黙って聞いていたが、「見せたいものがある。すぐにわかってもらえるはずだ。」と、設計室へ案内された。
部屋には五十分ノ一のボール紙の模型が配置図に従って置かれていた。同じ木造大構造の多目的ホール、武道場に比べても、体育館はひときわ巨大で目立っている。
「先生方の希望通りにできないかと、テストを繰り返してきたのだ。今、両側を広げた模型と入れ替えてみるから、予断なしに率直な意見を聞かせてくれ、遠慮はいらない。」
二つの体育館の模型だけを見ていると、片方はやや大きいなと感じる程度で、これが問題になるとは思えない。ところが、幅を広げた模型を、建物群のなかの定位置に置くと、ガラッと様相が変わってしまったのだ。
元のサイズの模型だと、ピッタリ収まっている。違和感は全くない。幅を広げた模型と入れ替えると、それだけで建物群の調和は完全に崩れてしまうのである。生理的な不快感を与えると言っても良い。向きを変えたり、少し離れた位置に置いてみたり、幾つかの建物の位置をずらしてみたりしたが、どうにもならない。誰がやっても、同じだろう。体育館のサイズを変えただけで、全体の調和がぶち壊しになるのだ。なるほど、これでは最初からやり直すしかないなと、よくわかった。
それにしても、「調和感」というのは、人の持つ不思議な感性の一つである。調和が取れているかどうかを誰もが瞬時に見て取れるということで、感性と言っても「調和感」は客観性を持つ感性だということがわかる。それは誰もが共有できるものであって、主観的な形而上学ではないのだ。音楽での不協和音や、紺と黒との配色のミス・フィットも、「調和感」が客観性を持つ例となろう。
感想は一言、「やはり、ダメだね。」で終わった。黙って私を見ていたアレグザンダーは、当然この答えを予想していたと思うが、肩の荷をおろしてホッとしていたのが見て取れ、ことのほかご機嫌だった。
校長、教員には、体育館の幅を変更できない理由について自信を持って報告、了承を得た。ギャラリーについては、たとえ片側であっても、空間に方向性を持たせるためにはそれが必要だというアレグザンダーの説明を伝えこれも受け入れられた。バレー・ボール・コートを二面取れないのであれば、観客席はあったほうが良いに決まっている。実際には、屋外のコートも使えるし、大きな障害はなかった。片側だけのギャラリーも、校内対抗試合,校外招待試合を初め事あるごとに活用されている。
教員の希望に添える道はないか一ヶ月かけて模型のシミュレーションを繰り返していたとは誰も考えていなかった。校長も教職員も改めてアレグザンダーの誠意を認識し直すことになった。建築家の側にこのような姿勢がある限り、しばしば起こりうる施主と建築家との間の意見の対立、意思疎通の障害なども、最終的には解決されるのである。
耐久性と難燃性
一般に木造建築は、RC造に比べて耐久性が短く火事になりやすいと思われているが、必ずしも正しいとは言えない。日本では木造建築の償却期間は二十年となっており火災保険料も高いのでそう思われるのも無理はないが、実際は使用される資材によって大きく違ってくる。普通の木造住宅に使われている細い木材では、耐久性もないし燃えるのも簡単、これに有毒ガスを発生する引火し易い新建材でも加われば、火事を待っているようなものだ。
口径が大きく目が詰まっている硬い木材を使えば、耐久性はRC造よりはるかに長く、そう簡単には燃えない。焦げて炭化はしても、炎を上げて燃えるまでには可成りの時間がかかる。もっとも、高熱の下では鉄でさえ燃えるのだから、このような木材でも不燃とはいえない。難燃性という用語が使われているようだ。
この体育館では、尺二(三十六センチ角)四本、それ以外の柱は全て尺角、それに長さ十四メートルで継ぎ目なしの登り梁など、大口径のダグラス・ファーを使用している。見ただけでも、すぐには燃えそうもないとわかる。ビル火災の原因とされる可燃性の素材である新建材の内装などは一切ないので、通常のRC造で新建材の内装材を多用している多くの体育館に比べれば、火災の危険度ははるかに低いと言ってよいかと思う。
集成材の使用を勧められたが、多目的ホールの曲線を持つ梁に使っただけで、他はすべてムク材にした。集成材は言ってみればひき肉のハンバーグであり、フィレ肉のステーキに相当するムク材の味わいは到底望めない。自然のムク材特有の木の香り、色艶、肌触りを集成材に求めるのは不可能である。ただしムクにすると集成材のように正確な計算はできないので、フジタは五年間にわたって体育館の屋根の荷重による沈みを計測していたが、何の問題もなかった。
火災の危険性、荷重による構造上の問題は解決したが、残る大きな問題は、耐久性に関わる外部露出部分の腐食である。いくら大口径の木材でも、高温多湿の気象条件の下で風雨にさらされてはひとたまりもない。塗装による表面の保護が不可欠なのだが、塗装材料の選定が問題になった。
十一月から四月まで深雪に包まれ零下二十度を下回る過酷な山岳気象に耐えている上高地帝国ホテルを参考にしたいと、長野県諏訪市にある担当業者に問い合わせたが、そのままこの体育館には使えないと言う。
困っている時に、偶々西ドイツ〈当時〉からの輸入品であるキシラモンを勧められた。説明と資料によれば、費用はかなり高いが、耐久性もあり条件にかなっている。浴室の塗装例もあって、高温多湿に強いらしい。これに決めようとしていたところへ、スタッフのハイオが西ドイツの新聞の切り抜きを持ってきた。キシラモンについての警告で、内部塗装での使用は西ドイツでは禁止になっている。外部の塗装でも、毒性が強いので、人の手の届く高さまでは使うなと具体的に指示している。
本国ではこれだけはっきり毒性の強い塗料として、使用にあたっては厳しい制限をしているのに、日本では野放しで、堂々と住宅内部の浴室の塗装例を宣伝している。サリドマイド、水俣病から血液製剤に至る多くの水質汚染、薬害を放置してきた日本の厚生、通産行政の怠慢と業者寄りの姿勢はまったく改善されていなかったのだ。危ないところだった。これだから、新製品は怖い。
結局フジタとの合意で、五年毎にオイル・ステインの塗装をしていくことになった。ペンキ仕上げの選択もあったが、ペンキが日常生活に定着していない日本では、将来長く多額の塗装費用が予算に計上される保証はない。それまでに、塗装の予算が無いために無惨な状況を示しているペンキ仕上げの事例を多く見てきたので、この選択は見送った。
完成後、視察に見えた埼玉県学事課のグループの一人から、「これは、どのくらい保ちますかね?」と質問された。前後の会話から、鉄骨造かRC造にすれば長く保つのに寿命の短い木材に多額の金を使って・・・という批判的な雰囲気が、ありありと感じられたので、「黙って五百年は保ちます。」と答えた。RC造の寿命は一般に六十年と言われている。内部の鉄筋の酸化が避けられず、コンクリートの空洞化などの弱点もあって、すくなくとも七、八十年保った実例はない。今後数世紀の風雪にどのように耐えていくかの予測はできないが、これだけ大口径のダグラス・ファーを構造材に使用しているこの体育館が、鉄骨やRC造よりはるかに長く生き続けていくことは確かである。
歴史的瞬間
大口径の木材を揃えるのが大仕事だった。
尺角(三十六センチ角)四本を別に大量の尺角を揃えなければならない。それも、設計者の要請で「芯去り」ということになると北米の輸入材しか無いが、量が多いので国内の一つの市場では賄えない。
柱材だけでも容易ではないのに、継ぎ目なしで長さ十四メートルの登り梁もある。体育館の他に、多目的ホール、武道場の柱、梁が加わる。北米材のダグラス・ファー千二百立方メートル、四百立方メートルのレッド・ウッドを仕様通りに手当てする必要があり、幸い、レッド・ウッドはシアトルからの船荷をそのまま直接買いつけることができたが、ダグラス・ファーは国内で揃えることになる。
秋田、和歌山、徳島などの北米材集散地を丹念にまわってようやく必要な量の本数を揃えたのは、藤田敏美所長の精力的な活躍の結果であった。量だけなら良いのだが、仕様を特定すると、国内輸入材市場では容易には揃えられないのである。
工法に就いては、藤田所長の判断で決定した。
まず、列柱を体育館の土台に固定し、この作業と平行して、地上で屋根の骨格である合掌部分のパネルを必要な枚数組み上げる。最後に、この合掌部分のパネルをクレーンで吊り上げ、固定してある列柱に一枚ずつはめていく。それにしても、合掌部分のパネルをはめ込む前の列柱が立ち並ぶ迫力のある美しさは壮観だった。その光景は、岩波映画の記録映画「東野に翔ける」に残されている。
合掌部分を柱にセットする作業は、最初の一枚が大変なのである。朝から始めて、丸一日かかった。敷地の一隅に建てた生徒募集の現地事務所の二階から、担当の教員、スタッフのハイオらと終日見守っていた。柱が根元でガッチリ固定されているので、なかなかセットできない。
向かい合う二本の柱にセットするのだが、一方がはまっても他方がずれてしまう。強引にはめ込もうとすれば、木材自体が破損するので、それだけは避けねばならない。無理をすることで歪みが生じたりすれば、構造上致命的な結果を招きかねないのだ。数名の鳶職による空中での微調整がえんえんと繰り返された。
夕方の五時近く、快晴の空に夕日が沈みかけた頃、最初の一枚が見事にピタリと収まった。鳶はもちろん嬉しかっただろうが、朝からずっと固唾を飲んで見守ってきた大工と関係者の双方から、心からの盛大な拍手が贈られた。ハイオは、“Historical moment.”(歴知的瞬間だ。)と、叫んだ。
この一枚が収まれば、後は容易である。一日がかりだったが、ついに見通しが立ったのである。夕焼けの残照が残る現場に、クレーンと最初の一枚がセットされた列柱のシルエットを忘れることはできない。
建築基準法上の制約で、面積の一定部分をRC造にしなければならなかったので、正面入り口のRC造のスペースを教員室とロッカー・ルームにあて、その上部に小体育館を設けることができた。大きな小割りの窓から池を望むこのユニークな小体育館は、生徒に大変人気があった。
完成した体育館は、力強い大口径の柱と十四メートルの登り梁が与えてくれる、木に特有の美しく明るい空間を創り出している。周囲を池に続く濠で囲んだので、池からカフェテリアに続く芝生の斜面から見ると、「水に浮かぶ体育館」である。
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