二人の職人(1) 木造キャンパスに不可欠な役割り ‐ 棟梁・住吉寅七

木造低層が主体であるキャンパス計画の工事を進めるにあたって、腕の良い大工を棟梁として迎えるのは不可欠と思われた。フジタは、木工事の経験が乏しく、とくに戦後最大の木構造である体育館、多目的ホール、武道場を含む大規模工事は初めてなのである。
戦後、大規模な木工事そのものが皆無に近く、仕事がなければそれを経験しようがなかったのだ。フジタにもこれだけの規模の木工事を統括できる棟梁はいなかった。

五本の指に入る名大工

先輩で知人の浦林亮次専務(当時石本建築設計事務所)に大工の住吉寅七を紹介された。天理教城法(しきのり)教会に所属する大工で76歳、一緒に教会堂の建設にあたったことがあり、やや気難しいが、日本で五本の指に入る名大工だという。建築家は信用しないが職人には敬意を払うアレグザンダーも喜び、一も二もなく頼むことにしようと、二人で城法教会の会長(当時天理大学学長)を訪ねた。会長宅は、地方の旧家を移築したもので、隣接する教会堂とともに住吉が手掛けたと言う。会長は快く承諾された。住吉も、成り行きがよくわからないまま、会長からの話しなら引き受けようということになった。
住吉の仕事、特に教会堂内部の木の仕上げに圧倒された。講壇の前面にめぐらされた欄干の表面の仕上げが凄い。表面の木肌の艶とガラスを凌ぐ滑らかさが凄い。しかも木だけが持つ柔らかな感触には、優れた工芸品の品格と精神性が感じられる。実は、この表面を住吉は、鉋を使わず“のみ“一本で仕上げているのだ。鉋では粗過ぎるし、曲面には向かない。のみを使って、指と手で微妙な感触を確かめながら仕上げたのである。建具屋は大工の仕事をこなせるが、大工に建具は作れないとの通説があるが、住吉には当てはまらない。初めて日本の見事な職人仕事に接して、アレグザンダーの彼への信頼は一層深いものになった。

翌週、夫婦二人で子供の居ない住吉は単身上京し、学園近くの家を借りて歩いて五分の学園内の設計事務所に通うことになった。小柄で腰の曲がった年寄りだが、年齢から言えば子供か孫にあたる三十代のスタッフとはすぐ仲良くなった。大講堂を除く三棟の木造大構造、それに管理棟、教室棟、教員室棟、カフェテリア、小音楽堂はすべて木造、木工事の経験に乏しいフジタにとってはいずれもパイオニア・ワークである。工事全体を統括する工事所長を補佐し、木工事についてのあらゆる質問、相談に乗る役割の棟梁として、又とない適材を得たのである。
体育館を始めとする三棟の木造大構造は、フジタにとって初めての実験的な試みであって、言い知れぬ不安があっただけに、それにいささかも動じない住吉の姿勢は頼もしく映った。「いくら大きくても、木造は木造、それだけのことでしょうに。」と言うのである。この発言には、生涯を木とともに過ごしてきた職人の持つ自信が感じられた。

アレグザンダーは各段階で来日していたが、住吉には終始敬意を払っており、その意見には熱心に耳を傾けていた。
基本設計で、すべての建物の屋根は切妻になっているが、住吉は執拗に寄棟を主張し続けた。デザインの面で不満があったわけではない。家らしい家は、入り母屋まではいかなくてもせめて寄棟でなくてはと言うのだ。切妻では貧しいという伝統的な大工の感覚、思い込みがあったのだと思う。理解はできるが、予算と工期に限りのあるプロジェクトの現実と、デザイン上の時代感覚の違いに大きな認識の溝があったように思う。

驚いたのは、実施設計の段階で、膨大な量の実施図面を彼一人で描き上げたことだ。設計スタッフは、それまで見たこともない彼独自の手法に息を呑んでいた。通常の製図用具は一切使わず、長年の大工としての経験を通じて自分で工夫してきた手法だったのだ。現場の工作に通じている大工の視点で描かれている実施図面なので、スタッフの話によると、実際に作業にあたる大工が見てわかりやすいものになっていたと言う。
実施設計の段階では、住吉は各木造建築の細部について、床の張り方、壁面の工法、柱と梁の工作から天井の仕上げに至るまで、様々な提案をしていた。アレグザンダーは、彼の提案について、大変良いと思うがこれは高等学校であって、邸宅や料亭を作るのではないと、繰り返し述べていた。工期と予算に照らせば、住吉の考えの多くを受け入れるのが難しいとは彼自身わかっていたと思うが、彼の目から見るとどの木工事をとっても安手の安易な工法であり、これでは大工としての自分の出る幕は無いことがわかったと言う。この間、「何のために私が呼ばれたのかわからない。」と繰り返していたが、彼には大規模な木工事で所長の補佐として助言、指導に活躍してもらうことになっていたので、彼の言葉の意味は、後になるまでわからなかった。

私の仕事はないから?天理へ帰る

実施設計が終わる頃、ある日突然、彼は荷物をまとめてタクシーを呼び、天理へ帰ろうとした。その日事務所に来ないので、スタッフが訪ねたら帰り支度をしていたという。説得して、その日は見合わせることになった。何かを怒っている様子は見られない。
若いスタッフとは仲良くやっているし、クリスさん(アレグザンダー)は立派な建築家で尊敬している。住まいも用意してもらったし、報酬にも不満はない。しかし、「もう私の仕事はないので、いる必要はない。」というだけだった。
木工事の経験に乏しい工事所長の相談に乗り、大工ら職人を指導、統括する役割りを彼に期待し、これから始まる建設作業に住吉は不可欠だと考えていたので、「もう仕事はない。」という意味がわからなかった。
次の日、呆然とする私を残して、彼は天理に帰っていった。

アレグザンダーにとっても私にとっても、彼の突然の辞任は晴天の霹靂である。ただちに来日したアレグザンダーとともに、城法教会を訪ねた。会長の助力で住吉に復帰してほしいと懇願する。これほどまでに頼りにされているのだから考え直してはどうかとの会長の説得でやっと復帰が決まった。それでも、最後まで、「信頼してもらうのは有難いが、仕事がないのに私がいたってしょうがないでしょうに。」と言い続けていた。その後、顔をあわせるたびに、「先生の熱心さには、逆らえなかったですよ。」と繰り返していたが、依然として「仕事が無い。」の意味がわからなかった。
住吉は、工事の完成まで居ることになり、工事現場に近い現場事務所にしていた家に住んで、建設現場に通うことになった。

レッド・ウッドの原木が名古屋港に入った時、陸揚げした原木の断面の美しさに見惚れていた住吉は、工事中、この材の断片を集めて風呂の蓋、ほとんど工芸品のような踏み台等を作って見せてくれたが、大工職人としてこのレッド・ウッドを工作するのがよほど嬉しかったのである。自分の手で仕事をすることだけに無上の喜びを感じていた住吉は、職人以外の何者でもなかったのだ。
名古屋港から金谷に原木を運びそこで製材する。深夜便で金谷から現場に運び込まれた木材の刻みが始まり、住吉は黙って大工たちの仕事ぶりを見守っていた。現場の若い大工が、「今までいろいろな材を扱いましたが、尺二(三十六センチ角)は初めてでした。緊張で手が震えましたよ。」と話していたのを伝えると、「いくら大きかろうと、木は木じゃないですか。尺二だから手が震えるなんて言うのでは、大工じゃないやね。」と冷たい反応にショックを受けたことがある。さしたる根拠もなく威張ったり,卑屈になったりするのが嫌いだったようだ。

「宮大工」などという大工はいない

当時としては異例の大規模な木工事だったので、自薦、他薦の大工が何人も訪ねてきた。その中に「宮大工」との肩書のある名刺を持つ中年の大工が居た。よくしゃべる男で、有名な神社、仏閣の改修仕事に関わった実績を列挙しており、それなりの大工だったとは思う。住吉も側にいて、儀礼上黙って聞いていたが、その直後めったに怒るのを見たことがない彼が激怒していた。前から、誰が流行らせたのか知らないが、腕のある大工を世間で「宮大工」と呼ぶのが不愉快でたまらなかったと言うのだ。
「先生ネ。宮大工なんていうのはいませんよ。大工には良い大工と惡い大工がいるだけだね。お施主さんに頼まれたら、物置だろうと型枠だろうと何でも作るのが大工ですよ。もちろん、お宮やお寺の仕事がやれないんじゃ大工とは言えないやね。どんなものでも、良い仕事をするのが良い大工なんです。お宮やお寺だけやる大工なんて、大工とは言えないね。建築家の先生方も施主の方々も、宮大工なんてつまらない呼び方は、やめてくれませんかねえ。」
宮大工と言われる大工にまさか物置は頼めない、と遠慮する施主の姿勢も不愉快だが、宮大工の側が仕事を選んだりする風潮が我慢出来ないと言う。現に住吉は、RC造の城法教会を建設した時、土台の型枠は全て一人で作った。「型枠などは・・・」と言ってやりたがらない大工が一人前の職人であるはずがない。「型枠大工」が蔑称になっているということがおかしいのだ。彼は、型枠作成にも独自の工夫を加えていた。物置でも型枠でも、腕の限りを尽くす、たとえ平凡な工作であっても誰もがやれるような仕事にはしないのである。

口では辛辣な批判をするが、現場の棟梁、大工の仕事には絶えず目を配っていた。所長、棟梁らの木工事についての相談、質問にはいつも丁寧に対応していた。所長も住吉には深い敬意を持っていて、何でも相談していた。
早朝、まだ誰も来ていない現場に現れ、ひと通り作業の進展具合いを確かめる。職人が出てくると事務所に引き上げる。一日も欠かさなかった。所長から連絡があると現場に向かい、問題の対応に当たる。時には、直接指導することもあった。彼がいなければ、所長も棟梁も、木工事のあらゆる場面で立ち往生していたに違いない。プロジェクトの立場から見れば、彼は、まさに所を得た活動と責任感でその役割を見事に果たしたのである。
フジタと施主側の対立を解決するために、毎週金曜日に現場下の設計事務所で設計スタッフのハイオ、学園の教員代表である体育科の小林清孝と事務職員の絹川祥夫、それに私と藤田所長ら工事スタッフの三者協議の場として工事委員会が持たれていた。住吉は時折ここに出席していたが、殆ど黙って聞いているだけであまり発言はしなかった。体育館の大口径の柱と梁をどう組み立て、その上に大屋根をどのようにして載せるかの大掛かりな試みについて所長から話が出た時も、住吉はとくに意見を述べたりはしなかった。

実は、その間、彼は、金物を一切使わない精緻を極めた体育館の模型を完成させていた。現在は法規上使えない方法であるが、仮にそのやり方で体育館を作れば、住吉以外には手も足も出せなかっただろう。特に尺角の列柱に載せる大屋根の合掌部分の仕口は異様に複雑を極めた精巧なもので、事務所を訪れた建築家、工事関係者らを驚嘆させていた。金物を使わなくても、構造的には完璧でびくともしないと言うのである。
「金物など使わなくたって、それよりずっとしっかりした体育館ができるんですけどねえ。」といかにも残念そうだった。住吉にとっては、たとえ戦後、最大の木造大構造であろうと金物を多用する工事の手法などには全く関心がなかったのである。彼の目で見れば、金物をふんだんに使うのであれば職人の技術は不要、彼が口を出す話ではない。
住吉は、北米輸入材ダグラス・ファーの乾燥度がずっと気になっていたようで、不安にかられて藤田所長に聞くと、問題ないと一蹴された。住吉は、「表面は乾いているように見えても、中はジャブジャブですよ。」と言い続けていた。乾燥度の許容範囲が、住吉とフジタでは大きく違っていたのである。工期の問題があり、金物の使用で安全性が確保されればよいと考えるフジタと、工事の規模にかかわらず精巧な木工事にならなければ気が済まない住吉との違いだったと思う。

住吉には、施主、設計者側とフジタが対立した時、仕様の指示と実施図面どおり工事を進めるよう支援してもらうことを期待していたがだが、必ずしもそうはならなかった。
回廊の列柱のコンクリートを現場打ちにするよう主張し続けたが結論が出ないままだったところ、ある朝、フジタの強行策で大量のプレキャストの列柱が立ち並んでいるのをハイオが発見、連絡を受けて工事事務所に駆けつけ所長にやり直すよう抗議した。住吉に来てもらったが、彼は逆に、「工期を考えると、これしかないと思います。」とフジタ側の肩を持ったのである。やむを得ず、黙認せざるを得なかったが、ショックと失望は大きかった。

体育館の大屋根で、厚い板を接ぐのに、所長は実施図面で「本ざね接ぎ」となっているのを「相欠き接ぎ」に変えたいと言う。時間がかかって工期内には無理だと説明していた。工期の問題があり、藤田所長、住吉、私の三人で協議する。当然実施図面通りにすべきでこのような重要な部分で手抜きは許されないと所長の提案を強硬に突っぱねたが、住吉からは、「先生の意見はもっともですが、今の場合、所長さんの行き方でやるしかないやね。」と至極あっさりした発言があって、「本ざね接ぎ」を断念した。
実は、この件は、時間の問題ではなかったのである。住吉を紹介してくれた浦林専務に住吉についての不満を伝えたところ、できない大工はいくら時間をかけてもできないのだということだった。誰もが一流ピアニストのようには弾けないが、それと同じだという説明で、納得した。この加工のできる大工がいなかったのを所長も住吉も承知していたのである。それを言わなかったのは、住吉が所長の面子をたてたからであった。
工事委員会で住吉はいつも沈黙を守っていたが、工事期間を通じて、木工事についての経験と知識、自分の腕を使っての仕事ができなかったことで大きなストレスを感じ続けていたのである。

二十年後の真実・「仕事がない」の意味

それから二十年後、左官屋石黒の至福の一年について書いている時、突然、住吉をめぐる不可解な状況が隅々までわかった。彼の奇怪な言動の意味が理解できたのである。この時はアメリカに住んでいたが、居ても立ってもいられず、本人に電話した上で急遽帰国して天理を訪ねた。
「お出かけくださったのは嬉しいのですが、突然何でしょうか。」と訝しげな表情だった。いつものように、正座を崩さず黙って話を聞いてくれ、長年にわたる不明を恥じていると謝罪したのを、快く受け入れてくれた。木工事の成否を全面的に住吉に賭けていたので彼の嫌う工事の統括・管理という仕事を押し付け、彼が本当にやりたかった直接自分の手を使う仕事を何一つさせなかったことについて、心から詫びたのである。
「先生のお詫びはね、私にとってこれ以上ない褒め言葉ですよ。こちらがお礼を言いたいネ。誰もわかってくれなくて良いと思っていたんですがね、よくわかってくださった。こんなに嬉しいことはありませんよ。」

ボタンの掛け違いは、最初の天理訪問の時に始まっていたのである。
アレグザンダーと私は、前例のない大規模な木造大構造を含む木造低層主体のキャンパス建設の木工事全体を取り仕切る棟梁を求めていたので、彼に木工事をやってもらうことなど全く考えてもいなかった。棟梁が必ずしも実際の手仕事にあたる必要はない。ところが住吉は、自分の大工としての腕を見込んで頼んでくれたのだから、当然、自分が直接手を使う仕事が待っていると思ったのである。ここに根本的な食い違いがあった。
講壇の手すりの、ガラスを凌ぐような滑らかな仕上げは、自分の腕を見て信頼してほしいとの彼のプレゼンテーションだった。自分の腕を振るえる仕事を与えてもらえるものと思っていたので、実際の工作でそれを見てほしかったのである。素晴らしい仕事だと思ったのは確かだが、それを、単に、彼が名大工であることの証しとしか受け取っていなかった。住吉には木工事の統括・管理を頼むのであって、実際の木工事をやってもらうつもりはなかったからだ。

基本設計、実施設計の段階では、彼は木工事の経験を活かして協力し、実施設計の全図面を誰も見たことがない独特の手法で描き上げて設計スタッフを驚かせた。しかし、実施設計が終わった時点で、工事に入れば自分が直接腕をふるって手がける仕事は全く無いことがわかった。アレグザンダーは擬洋式の教室棟の仕様、設計を彼に任せたが、直接彼が手がけるわけではない。「仕事が無いから、帰る。」という言葉は、「自分が直接手掛ける大工仕事はない。」という文字通りの意味だったのである。
住吉のような大工にとって、木工事の管理、統括、指導という役割は自分の仕事とは思えないし関心もない。彼が幸せになるのは、自分の腕を使って、現場で直接熱中出来る仕事をしている時なのである。
現実の実施図面の指示には、高度の技術を要する木工事は一切ない。彼は、誰でもできる工事に、自分が立ち会う必要などまったくないと考えていたのである。

二度目の天理訪問で彼が「信頼して頼まれるのは光栄ですが、私の仕事はないんですよ。」と繰り返していたのは、その通りの意味だったのである。アレグザンダーと私が彼の仕事と考えていた役割は、彼に取っての「仕事」ではなかったのだ。
「あれだけ熱心に頼まれては、断ることはできませんでしたよ。先生の熱意には負けたね。」と言って現場に復帰したが、現場にいた大工は、彼の目で見ればことごとく失格だった。それでも、所長、棟梁らの質問、相談には、親切に対応して、立派に期待されていた役割を果たしてくれた。
ただし、彼の言葉を借りれば、「心ならずも・・・」ということになる。毎日、大工(「第九」)には到達していない「第三」や「第四」に取り囲まれて暗然とした思いだったと話してくれた。「それでも、優れた建築家のクリスさんや設計の若い人たちと接することができて感謝していますよ。」と率直に胸の内を語っていた。

フジタと設計者・施主側の対立は、常に、図面通りの工事をしないで「別の方法に変更したい」という提案をめぐるものだったが、住吉が期待に反して所長の考えに同意していたことについても明白な説明をしてくれた。
「フジタには、図面通りできる大工がいなかったんですよ。何時も工期と時間をその理由にしていましたが、それは関係ありません。所長は真面目な人で、一生懸命クリスさんの考えを出来るだけ尊重しようとしているのがわかっていたので、こちらだってあまりはっきりしたことは言えないじゃないですか。だいぶおかしな事も言っていましたが、それでも所長はよく短期間にあれだけの仕事をしたと感心しています。たいした人ですよ。」
フジタに大工らしい大工がいなかったと言うきついコメントも、必ずしもフジタを傷つける事にはならないと思う。住吉の目から見れば、どのゼネコンの大工でも今居る大工のほとんどは失格だからである。彼の目に叶う大工などは、まずいないであろう。
レッド・ウッドの原木に接して良い経験を楽しんだと言う。それを使っての小道具には工芸品の域に達するものがあった。金物を使わない体育館の模型に熱中するひと時は心から楽しんだが、それだけに金物を使った現実の体育館しかできなかったのが残念だったと言う。
二十年後にはなったが、すでに九十歳になっていた元気な住吉に会い、真実を聞かせてもらえたのは幸いだった。

石黒の話を聞き、住吉は「本物の仕事に集中している時が職人には嬉しいのです。それを考えれば、一年間大講堂に寝泊まりして内装を仕上げるなど、なんでもありません。金も関係ありません。仕事をしていることだけが、職人には最高の幸せなんですよ。先生もいいことをなさったねえ。」と呟やいていた。

建築審査会に提出する木造大構造三棟の構造図面を引き受けていた松井源吾元教授(早稲田大学建築科)が、住吉の精巧な接ぎ手の模型に驚いた。それぞれの複雑な仕口が見事に構造計算の上で合理的に造られていたのである。これらの仕口の模型は、松井、住吉の共著で出版され広く世に紹介されて、住吉を喜ばせた。その後、松井元教授の紹介でミュンヘンとニューヨークのギャラリーで、日本の伝統的な継ぎ手の模型が展示された。住吉は生まれて初めて海外へ出かけ、毎日会場に詰めて、解説と実技の披露を心から楽しんでいた。
人生の最晩年になって、思わぬところから降ってきた幸運を住吉は心から喜んでいた。その後も合うたびに、「先生からあのプロジェクトに招いていただけなかったら、松井先生にもお会いできなかった。先生が引きあわせてくださった御恩は、一生忘れません。」と繰り返していた。何か、デート・クラブの経営者として感謝されているようで、釈然としなかったが、今はわかる。
住吉は96歳で他界した。彼が現場下の設計事務所で黙々と作っていた「継ぎ手」模型の一部は、今、東京両国の江戸博物館に所蔵されている。

「(2)最高の文化遺産、四面黒漆喰の列柱と大講堂の内装」へ
目次に戻る