キャンパスツアー(12) 大講堂

© 2018 Mao Matsuda

このキャンパスで唯一の重量鉄骨大構造。学校では、入学、卒業式から講演、演劇、音楽会などの諸行事に講堂は欠かせない。

最初の課題は、収容人員の規模と、講堂という空間のスタイルだった。建物の大きさは、収容人員で決まるし、そこにどのような空間を求めるかは、講堂そのものの性格を規定する。
入学、卒業式には、全校生徒千二百名を参加させる、これに父母、来賓を加えて千六百名の収容を教員は希望。アレグザンダーは、年二回だけの行事のためにそのような規模が必要とは思えないと強く反対した。面積配分の調整がそれまで難航していたので、講堂の収容人員はもっと縮小して、浮いた面積をほかに回すべきだと言うのだ。費用効果の考え方には、説得力がある。担当する部屋、建物の面積をもっと増やしてほしい教員が多いところへ、予算の限られていることが決め手になって、収容人員の問題は解決、一階に八百名、二階の後方と両側の回廊に合計二百名の合計1,000名ということになった。

劇場型か従来の講堂か

容易に結論が出なかったのは、講堂空間をどのようなスタイルにするかであった。
現代のホールの殆どは、床に勾配を付け、列席者が舞台を見下ろすスタイルになっている。傾斜を急にすれば、前席の人の頭で視界を遮られることもないし、座席の下部の空間はフォアイエとして活用できる。機能、構造の両面で優れており、現に、大学では階段教室が少なくない。教員の多くは、この劇場型を希望した。

アレグザンダーは、劇場型の利点を認めながらも、それには賛成できないと言う。教職員がほしいのは、劇場なのか、講堂なのか?映画館、劇場なら、町にいくらでもある。わざわざ,学校にもう一つ増やす必要があるとは思えない。学校の講堂に求める雰囲気は、劇場のそれとは違うはずだ。講堂という空間には、儀式にふさわしい厳しさとともに、若い生徒の集いの場として、活き活きとした躍動感も持たせたい。劇場型にするかどうかもあろうが、ここの内装が大切なのではないか。舞台の見え方が問題だというが、学校の講堂で大切なのは、“見る”ことより“聞く”ことではないのか。
議論は続いたが、結局、木造低層を主体にする昔ながらの木造教室棟を持つキャンパスにモダンなホールはふさわしくない、やはり伝統的な講堂にしようということになった。

基本設計終了時に、大講堂の概要が確認される。間口 奥行き 高さが確認され、構造は重量鉄骨造、大屋根は切妻で瓦葺きになる。広場に面して、出入口を三箇所にする。両開きの厚い木製のドアを開けると、正面が板壁で塞がれている小さなエントランス・ホール、その両脇からもう一枚のドアを開けて、大講堂の空間へ入る。
二重の扉で外界と断絶している大空間は、右手に舞台、二,三階に回廊を巡らせている。床、壁面、天井はすべて木とするが、内装は躍動感にあふれた抽象パタンの赤と黒の漆喰仕上げで、とくに  本の柱は、四面とも黒漆喰仕上げにする。池側の入り口は一箇所だけ。二階の回廊には、広場側に複数の窓をとるが、それ以外の壁面には窓を開けない。厳しい緊張感を持たせるための「高窓」の考え方はここでも使われている。舞台には、飾り柱を立てて、背景には、ダイアのパタンのスクリーンが設置された。
舞台の左側の袖からは、そのまま廊下を通って楽屋を兼ねる小音楽堂につながる。天井からは、照明器具メーカーに製作を依頼した大シャンデリアを三基吊り下げる。映画「アマデウス」に出てきたシャンデリアそのものをハイオがスケッチした。伝統的な講堂の直方体の大空間にふさわしいオブジェになっている。

大講堂の鉄骨の骨格が立ち上がり、大屋根には埼玉県児玉で焼かせた特注の大瓦が葺かれた。外壁工事が完了したのは、完成前の年の十一月だった。外観は、ハイオによるとバシリカ様式だと言う二層の瓦葺き大屋根を持つ大講堂は、ボリュームはあるのだが威圧感を感じさせない。切妻の簡素なデザインが効果的で、ほかの建物群の甍の波とともに周囲の茶畠という環境に溶け込んで、穏やかな風景の一部になっている。

外壁の塗装と日本の色彩文化

© 2018 Mao Matsuda

教職員の間にちょっとした騒ぎをひき起こしたのは、外壁の色だった。柱、梁を黒にするのは良いが、その間の壁の色は誰もが当然白だと思っていたのだ。講堂という言葉の響きから考えても、普通の日本人には黒と白以外の外壁など想像することさえできなかったのである。アレグザンダーが彩色した模型を見て、多くの教員が仰天した。柱と梁以外の外壁が緑色に塗られていたのである。
平安時代までは、大陸文化の影響をモロに受けていたので、京都などの寺社建築では黒白以外の色彩にも馴染んでいたと思われる。本来の色彩がなくなってから再塗装されていないのでわからなくなっているが、春日大社の大鳥居の赤などは誰もが知っている。しかし、鎌倉以降、白木文化が成立し、ワビ・サビが日本の伝統的文化の基調とされるようになってからは、建築に黒白以外の色を使う例は、ほとんどなかったのではないか。

欧米では、木造住宅、塀などに好みの色を使うペンキ仕事が日常生活に定着しているが、このような環境は日本には全くなかった。街並みの色合いは、木の地の色と外装の漆喰の白、瓦の黒が普通で、これが何世紀にもわたって継承されてきたのである。近代化の波の中で明治、大正期に英国文化のコピーとして東京丸の内に出現したレンガ建築の色は、恐らく日本人の建築における色彩感覚に鮮烈な刺激を与えたものと思う。

「何?これ?」「大講堂を緑にしちゃうの?」騒然とした教職員の反響の中で、はっきりと肯定の意思表示をしたのは、美術の教員で現在は家具職人として木製家具を製作している徳岡和久一人だった。白木文化の影響が、日本人の間でいかに根強く残っているかがわかる。建築に限らず、日常生活に色彩が乏しいのだ。
東京の国電の車両は、鉄道省の管轄で省線と言われていた時代まで長い間茶色一色だった。国電に変わってから豊富な色彩での塗装になったのは、七十年代に入ってからである。湘南電車の車両が蜜柑の木のオレンジ色と緑の二色に塗り分けられていた塗装は、当時、日本の色彩文化に画期的な影響を与えた。人々の間に根強かった「電車は茶色」という長い間の固定観念が破られたのである。日本の婦人靴店では、未だに欧米ではごく普通になっているカラフルな靴を求めるのは難しい。
いくらか違和感はあるが、案外、茶畠の緑に合うのではないかとの声も出始め、徳岡らの積極的な支持の意見もあって、大騒ぎの末、壁面を緑色に塗装することになった。

試験塗りで色を決める

次は、色の決定だ。工事委員会では、「色見本では決めない、実際に大講堂の一定部分の壁面を試し塗りした上で色合いを決める。」と宣言した。毎回フジタは、合理・費用効果・大量生産方式に沿っての工事方法を、“時代の潮流”を背景に強要してくる。「その方がよいとはわかっていますが、現実には無理です。」が繰り返されていた。

塗装の色合いを見るには、一定の面積の塗装が必要で、色見本帳に貼ってある小さな切れ端で判断するのは不可能である。それに、乾いた後の色の変化などは、実際の塗装でしかわからない。塗装でも、壁紙の選択でも、見本帳で決めるのが一般のやり方だというのは確かだが、ほとんどの場合、出来上がりの色が期待を裏切るのも又確かなのである。
この場合は、キャンパス最大の大講堂の壁面で、工事量から見てもやり直しはきかない。失敗は許されないのだ。実際に壁面で試験塗装をするよう強く主張し続けた。大講堂の外壁と同じ材質のサンプルに試し塗りをしてはどうかとの妥協案も即座に拒否した。手に取れる程度のサンプルに塗ってわかるわけがない。下地の材質もあるが、乾燥後の色合は塗装時と全く違ってくる。工事期限のギリギリの段階で、フジタはようやく現場での実験を受け入れてくれた。

小音楽堂よりの壁面で試験塗装をしたが、中々思うような色合いは得られない。最終的に決めるまで、さらに半月かかった。この実際の経験から、現場での実験の重要性を改めて痛感させられた。図面とサンプルで事を進めていく今日の安易な手法からは、決して良い建築は生まれないだろう。
塗装のやり方について、アレグザンダーは刷毛による手仕事を要請したが、迫っている工事期限と作業量の問題で、これは断念せざるを得なかった。最も簡単な吹付け塗装は断わり、最終的にローラー使用ということで折り合った。

色の決め方、塗装のやり方の議論に試験塗装の期間を入れると、塗装だけで二ヶ月近くかかったことになる。それだけに、塗装が終わって、黒の柱、梁に緑の壁面という大講堂の外壁が仕上がった時は、感慨深かった。広場から全体を見て、ほぼ期待通りの仕上がりになっていた。時間をかけただけのことはあったのだ。

大詰めでの仕様詳細図面

© 2018 Mao Matsuda

基本設計、実施設計の段階で、外部、内部とも基本的な部分は決まっていたが、内部の窓、出入口の二重の扉とエントランス・ホールの建具の仕様、舞台、階段、回廊などのディテールはできていない。それらの設計作業が始まったのは、一月の半ばを過ぎてからだった。現地設計事務所では、ハイオ、塩原民夫、筒井実代子の三人が徹夜の連続で図面の作成に追われ、出来たそばから待機している工事事務所のスタッフに手渡すという綱渡りをしていたが、これでは到底間に合わないと、所長は本社から数名の設計スタッフを呼び寄せた。

現地事務所の三人にしてみれば所長に押し付けられた印象は拭えず、といって、よくわからないままに駆りだされた応援設計者たちに何の責任もないことはハイオもよくわかっていたので、彼らの協力は受け入れていた。なんとかすべての図面が揃い、二月初め、待機していた職人が大講堂になだれこんで、徹夜連続の突貫工事に入ったのである。

三月初め、足場が撤去され、大講堂はその全貌を現した。
広場は、オーストリア・ザルツブルグ旧市街の建物をつなぐ小広場の話をしてアレグザンダーに頼んだものだが、三方を建物に囲まれ前に水面を望む長方形の広場としては、イタリア・ベニスのサン・マルコ広場に共通しているものがある。サン・マルコ広場では、三方を囲む建物が長い歴史を感じさせて重々しいが、このキャンパスの広場では、右手にある最大のボリュームを持つ大講堂も威圧感はなく、重厚と言うよりは親しみやすい優しさを持っていると思う。左手にあるなまこ壁を持つ木造二階の管理棟と昔ながらの擬洋式の木造校舎が立ち並ぶホーム・ルーム通りも、広場に親しみやすさを作り出すのに貢献している。
それにしても、大講堂の壁面を緑色にしたのは正解だった。仕上がってみると、茶畠に囲まれた田園風景の中で、この建物は緑によって初めて存在感を持って生きているのだと実感できる。ボリュームがあるだけに、これが黒白だと、周囲から浮き上がってしまい、逆に違和感をさえ感じさせるのではないかと思う。

大講堂の秘密の場所

© 2018 Mao Matsuda

大講堂には、生徒、教職員のほとんどが気が付かない珠玉のような場所がある。
二階の回廊の西側の足元に、うっかりしていると気が付かないで通り過ぎてしまう小窓がある。床のすぐ上に開けられた小窓だ。たいてい閉められているので、誰も気が付かないのだが、ここでしゃがんで真下を見下ろすと、池と太鼓橋の景観が、小窓に切り取られた一幅の絵になっている。それが、どこか覚えのある懐かしい風景なのだ。真上から見下ろすという普通には経験出来ない視角からの絵なので、いつまでも見飽きない。疲れると、しばしばここへ来ては小窓の前でしゃがんで、このユニークな絵に接するのが隠れた楽しみの一つだった。

フジタは、手仕事の漆喰仕上げによる内装を引き受けなかった。開校後初めての入学式は、白一色の仮塗装で迎えた。プロテスタントの教会の持つ清々しい爽やかさは、それなりに好ましいものではあったが、最終的な内装が完成するのは一年後になった。左官の石黒重治は、黒漆喰仕上げという日本の伝統的な文化遺産を継承し、アレグザンダーによる赤と黒の躍動的なパタンを手仕事の漆喰仕上げで見事に定着させた。アレグザンダー自身はこのパタンを、「少々うるさすぎるのではないか?」と気にしていたが、キャンパス全体の豊富な装飾の中では、この力強い躍動感を過剰とは言えないと思う。伝統的な講堂の大空間を、単にもの静かな復古として終わらせず、その内部に現代の息吹を与えているからだ。

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