キャンパスツアー(4) カフェテリア

© 2018 Mao Matsuda

何が問題だったのか?

学校では不可欠な施設、昔は学生食堂〈略して学食〉、今、カフェテリア。呼び方が変わったからといって、実体が良くなったわけではない。どこへいってもワン・パタンで変わり映えがしないのは、四間x 五間で二十坪の教室と同じである。
セルフ・サービス、低料金、手のかからないメニューという三条件の下で、予想される学生数をいかに円滑にさばくかが、設計者に課せられた機能上の与件となる。これを予算内に収めるのだが、法的な衛生基準が厳しいので、厨房施設のコストは削減できない。その分、学生の使う空間にしわ寄せが来るのは避けがたい。

もともと低料金で多数の学生に食事を提供するのが目的の厚生施設であれば、利潤追求は無理だ。室内の家具、装飾には時間も金もかけられないのである。安手の仕上げによる床と天井にモルタルの壁、足が四本あるというだけのテーブルと座ることを拒否する椅子が、漫然と配置される。拭くだけで良いビニール・クロスは、多くの場合変色して薄汚れてくる。せめてテーブルには、キャンパスの草花でも飾ろうとの配慮も考えられるが、感性の未熟な高校生が相手では、まず徒労に終わる。現にテーブルの上に草花を活けてある学校のカフェテリアにお目にかかったことはない。
このような寒々とした無味乾燥な空間が、空腹解消という機能を果たすだけの給食施設、カフェテリアであった。くつろいで会話を楽しむなどとても無理で、それが目的の学生、生徒は外の喫茶店を利用する。学校の周囲に喫茶店が多い理由である。その結果滞在時間は短くなるので、回転は速い。回転の早さは、居心地を考慮しない貧しい空間の論理的帰結だと言える。機能さえあればよいのだ。見かけの装飾性に腐心するポスト・モダンの建築家にとって、学校のカフェテリアはおよそやりがいのない施設だと思う。

カフェテリアは給食が目的だという施主側の認識は、文明としてのエア・コン、厨房機器の進化を取り入れることを除いては、何十年にわたって変わらなかった。建築家にしても、機能上の与件だけで給食施設を頼まれるのでは、工夫のしようがなかっただろう。考えてみると、空腹を充たすだけというのでは、目的それ自体がいかにも殺伐としている。

目的の見直し

目的を改めて問い直す必要があった。今までの議論をそのままにしておいて予算が限られていれば、厨房は便利で快適になっても、学生、生徒の使う空間が貧しさから抜け出すのは難しい。ここでも“住まい”としての学校が、見直しの根拠になった。
“住まい”での食堂を考えてみようということから見直しが始まった。家庭の食堂は単なる空腹解消のための給食施設ではない。そこは、家族の“おしゃべりの場”なのである。客が来ることもあろうし、食堂での談話が全くなくなることはないと思う。
食事がすんでもその場で話が続くのが普通で、「では、つづきは居間に移って」とはならない。気のおけない客は、居間ではなくよく食堂でもてなすことがある。
建築家の宮脇壇(まゆみ)は、“住まい”での食堂の重要性を説き、居間に金をかけることの無意味さを繰り返し強調していた。“おしゃべりの場”であり客が来れば社交の場所ともなる食堂の重要性は、昔も今も変わっていないのだ。親が共働きのためセブン・イレブンの弁当をあてがわれている子どもたちもいるようだが、彼らだけで結構おしゃべりを楽しんでおり、「子供の放置だ。」などと否定的な側面だけを見る必要はないと思う。茶の間、食堂、ダイニングと、時代とともに呼び方は変わっても、家族が食事をしながらおしゃべりを楽しむ場としての食堂は、“住まい”の不可欠な部分として、今後も生き続けるだろう。

そういう場であれば、“住まい”の食堂を居心地の良い空間にしたいと思うのは、ごく自然である。大人が長時間座っても疲れない椅子がほしいし、食卓も少々予算を超えても良いものにしたい。天井、壁、床の内装も好みの素材を選ぼう。食卓には花の一輪も飾りたいし、好きな絵でもあれば食堂の壁面にかけておくのも悪くない。私の家の食堂には、父が誰かから買ったという鶏の丸焼きを載せた大皿の油絵が長くかかっていた。もっともそれが食事とおしゃべりに貢献していたとの記憶はない。あまりにも直截な絵は逆効果になるのかもしれない。

グループ・プライバシー

© 2018 Mao Matsuda

飲食には、“おしゃべり”を伴うという意味が込められている。「お茶を飲みに行かないか?」「久しぶりに食事でもしようか。」という誘いは、「ちょっと話をしないか?」「暫く会っていないが、ゆっくり近況でも聞きたいね。」という誘いの表現なのである。
高校、大学生の特徴は、やたらおしゃべりに熱中することだ。大した話題でもないのに、延えんと話が尽きない。雑談では、脈絡無く絶えず話題が次々と変わるが、数人のグループともなると、話題は無限である。彼らの最大の楽しみは、グループでのおしゃべりだと言って良い。それも周囲に気兼ねしないで心置きなくという、グループ・プライバシーが大切なのだ。
グループの構成員は目まぐるしく交代するのが常だが、時々のグループは結構閉鎖的で、それぞれ異なる話題を持っているし、独自の作法がある。周囲に見られたり覗かれたりするのは困るのだ。

このグループ・プライバシーは、早ければ小学校で始まり、高校、大学で全面的に開花する。二人だけの密会とは異質で、グループの閉鎖性とグループ・プライバシーへの執着と敬意は、秘密結社のそれに近い。他では出せない話題や作法があるのだ。
お互いにあるだけの知識のやりとりを通じて、世の中を知り、閉鎖性を守り作法に執着することで友人、仲間との信頼関係が大切である事を学ぶ、成人に至る通過儀礼と言って良い。このようなグループを仲良しグループと見るのも、閉鎖性を“こっそり”と理解したりするのも、いずれも見当違いなのである。
なんということもない話題でのおしゃべりというと、時間の浪費のようだが、彼らの成長は、この雑談と不可分なのだ。東野高校初代の校長萩原一雄は「仲間の間での雑談は、高校教育の重要な一環だ。」と述べている。教育というとすぐ教師や親を考える風潮に対する的確な批判になっている。教育には、年長者の指導も介入もいらない側面があって良いのである。仲間内での切磋琢磨なら昔から言われていて、別に新しいことではない。

グループ・プライバシーが保証されるなら、食事の内容などあまり問題にはならない。低料金も大歓迎、セルフ・サービスを含めた三条件は全て受け入れられる。ただ、今までの学校のカフェテリアには、彼らにとって最も大切なグループ・プライバシーが致命的に欠けていた。テーブルと椅子がオープンに配置されているのでは、だめなのである。
“住まい”における食堂には、はっきり「おしゃべりの場」という目的があったが、同じように、“住まい”としての学校には、「おしゃべりの場」を用意したい。高校教育の重要な一環などというと響きは物々しいが、要はカフェテリアに数人で雑談を楽しめる「閉じた空間」を作ろうということだ。

おしゃべりの場所としてのブース

© 2018 Mao Matsuda

欧米のレストランでは、オープンな配置のテーブルと椅子の他に、ブース(ボックス席)を広く用いている。家族、グループの食事に便利で、個室ではないが、“閉じた空間”である。学校のカフェテリアにとって、このブースは、グループ・プライバシーを確保するという目的におあつらえ向きだった。
アレグザンダーはその趣旨を理解し、ブース相互の,間仕切りをかなり高くしてくれた。廊下を隔てて庭の側は小割りの窓のフレンチ・ドアで開いているが、背の高い間仕切りのおかげでほとんど個室のムードである。庭の芝生の斜面に向けて開けている側に六、八人用、反対の側に三、四人用のブースを用意した。庭に面する側のブースからは、食事が終われば、そのまま外へ出でられる。これで、メインの入り口の混雑は回避できる。食券システムなので、食い逃げの心配はない。
南部イングランドの鉄道で1970年代に通勤列車として使われていた車両の仕組みと同じである。四人用ボックス席にはすべて外に開くドアがあって、座席からそのままドアを開いてホームに降りれば良い。走行中開いたりして危険はないかと思ったが、そこは個人の自己責任と良識を信頼することで成り立っている社会で、そのような事故はなかったという。このアイデアはそのまま頂いた。季節の良い時など、食後にさっと外に出られる快適さは生徒に大変喜ばれた。

反対側のブースはやや狭く、窓は大きく取ったがそれでも暗い。狭くて暗いのでは、生徒に嫌われるのではないかと心配したが、杞憂だった。むしろこちらのほうが、人気があったのだ。やや暗い方が落ち着けるし、少人数の親密な雑談の場所にはよりふさわしい、ということらしい。
各ブースとも、中央に厚い板を作り付けにしたテーブルを置き、それを挟んで向い合って座るやはり大きな厚板のベンチを取り付けた。ふつうの一人掛けの椅子と違って人数に対応する柔軟性もあるし、頑丈そのものの厚い板では、壊しようがない。天井、壁とも意図的に白木のままで、塗装もせず壁紙の仕上げもしなかった。内装、仕上げに気を使う“住まい”での食堂と違うところだが、生徒らにとっては、グループ。プライバシーのある雑談の場であることが第一で、あっさり言えば、後はどうでもよいのである。

食堂入り口の右側には、テーブルと椅子をオープンに配置した。グループでない生徒もいるし、小さな集会や、パーティーにも使える。この空間にも、北側に二つ、南側に一つ、四人用のブースを設けた。

二階は、当初は教員用とし、窓際に面して、テーブルと椅子をオープンに配置した。窓に取り巻かれた明るい部屋で、ここはキャンパスの全景を楽しめる最高の展望室である。最初は教員が利用していたが、仕事に追われて利用の頻度が減り、結局、全面的に生徒が使うことになった。
カフェテリアの位置は、敷地の南東側最奥部で、教室棟のあるホーム・ルーム通りからかなりの距離がある。教員の間では、教室からすぐ行かれるところに建てるのが常識ではないかとの意見もあったが、くつろぎの場であれば、むしろ別世界として建物群から離れている方が良いとの意見もあり、すでにその位置は配置図ができた段階で承認されていたので、大きな問題にはならなかった。実際に各教室からの時間を計ってみたが、一番遠いところからでも、三、四分あれば充分だった。

ブース歓迎で回転率落ちる

© 2018 Mao Matsuda

 

広場から望む池を隔てたカフェテリアの景観が高校生に喜ばれるだろうとの確信はあったが、グループのおしゃべりの場として多数用意したブースを彼らがどう受け取るのかが不安だった。
それは予想以上に歓迎された。昼休みになると、各教室から一斉にブースの座席取りのために走って来る。最初の年は一学年だけで、ブースもそれほどの混雑にはならなかったが、二年目、三年目になると収容不能となり、外側の屋根を伸ばして池に面するテラス席を用意することにした。

大きな問題は、収容力よりもブースの回転の速度であった。昼休みにせめて二回転はしてほしいので、ブースに長居しないよう指導してみたが効果はなかった。考えてみれば、目的の見直しによる実験的な試みが成功したことを喜ぶべきであって、回転数を多くするよう指導するなど自己矛盾である。
三条件もさることながら、彼らにとってはグループ・プライバシーの保証されている「雑談の場」というところが第一であることが、実証された。生徒側の不文律で、ブースの使用は最上級生優先で下級生はそれまで待つことになったようだ。
村祭りのアンケートで、生徒がキャンパスで最も好きな場所は、池が一位、キャフェテリアは二位、池にかかる太鼓橋が三位だった。

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