付記 第二期妨害活動の概要

彼等は、東野高校開校後も武蔵野校地の売却に執着し続けた。1987年3月武蔵野に在学していた最後の盈進高校生が卒業した後、実力で長谷川工務店への校地の引き渡しを妨害しようと企んでいたのである。
準備として、学内の妨害活動協力者が動き、元山口組系暴力団の一員を理事会に加えるよう執拗に要求してきた。沖田は暴力団を避けており、この動きは沖田とは別に、実力で学園を乗っ取り、長谷川工務店への引き渡しを妨害しようとした某大学教授である学内理事等の行動だった。彼等は、武蔵野の校舎で勝手に理事会と称する集会を開き、売却契約を伏せたままで第三者に武蔵野校地を違法に販売しようとしていた。れっきとした刑事事件である。それまで加わっていた同窓会理事は、ここで彼等と離れている。

1987年1月、柔道部、空手部OBと称する7,8名が、開会中の理事会になだれ込み、酒井田理事長と私に殴りかかった。不正があるという全く捏造の話を聞かされていた彼等は、一部妨害活動分子に乗せられていたのである。私が下顎骨骨折2ヶ月の重症を負い、彼等は学園不在中に勝手に評議員会を招集し、元大東文化大学理事長を理事長とする虚構理事会を選出、実力で学園を占拠した。私は自分の部屋に入れなかったので、連絡はすべて小川紀代美、徳岡泰子元幼稚園教諭,高校の小林(旧姓)厚子教諭らに依頼していた。
虚構理事会によって私を含む4名が理事登記を抹消されていたことで、長谷川工務店は直ちに土地代金の残額16億円を供託した。三銀行への返済ができなくなった。
登記を抹消されていた4名の理事は、八王子地裁に地位保全の仮処分を提起し、5月、仮処分が出る。登記を抹消されていた4名は引き続き理事であることが確認され、理事抹消登記は解消する。虚構理事会は崩壊した。

しかし、彼等も執拗で、6月中に理事会の承認による決算報告を県学事課に提出しなければならないのを見越して、欠席戦術を取った。理事は11名だったので、彼等4名が出席しないと理事会が成立しない、従って、決算報告署を学事課に提出出来ないのである。
万策尽きたかに見えたが、彼等の一人の評議員理事が辞任したことで、一気に問題が解決した。辞任は、彼の所属する大学内の事情があったと思われる。評議員理事の定員割れで新評議員理事4 名を新たに選出、続いて学識経験者理事をすべて入れ替えることで、理事会内の妨害分子を一掃した。
ギリギリで、決算報告書の提出が間に合い、同時に、長谷川工務店が供託を解くことで残額の16億円を受取る。三銀行への返済は無事完了した。

足掛け5年に及ぶ陰湿な妨害活動は収束、学園は久しぶりに明るい雰囲気を取り戻すことができた。
盈進学園小史の暗い部分ではあるが、多くを学んだと思う。
当時、協和銀行には、学校法人を担当する本店外回りというユニークな制度があり、その担当者が盈進プロジェクトを応援してくれていたが、ルール無しで時に暴力行為も伴うような騒動は宗教法人と学校法人に多い、とよく話していた。いずれも悪人に対する免疫性が弱く警戒心に欠けているので、狙われやすいというのだ。特に、学校法人では、教職員の物理的暴力に対する弱さは際立っている。開会中の理事会への白昼の暴力事件、虚構理事会による学園の事実上の乗っ取りに際して、組合も一般教職員も抗議一つできなかったことが、それを端的に示している。

100万円単位の金額で傷害、殺人に至る現代社会で、プロジェクトに関わって数十億円が動き、不法とはいえ土地に絡んで十億円単位の金の誘惑がちらついていたのだから、何が起こってもおかしくはなかったのである。
特筆すべきは、これで最後という状況下でも、妨害分子を除く理事会メンバーの結束が揺るがなかったことだ。虚構理事会による事実上の学園の乗っ取りに際して、組合、一般教職員はそれに対する抗議もできなかったが、虚構理事会に山口組系の暴力団が関わっているとなれば、一歩引かざるを得なかったのも自然であろう。しかし、彼等が虚構理事会に動かされることは、その危機的な時期を通じてなかった。お互いに距離をはかっていたのであろうし、盈進特有の共同体とその団結の力は生きており、虚構理事会が彼等を左右することはできなかったのだと思う。

虚構理事会のメンバーを恐れず、理事室を占領されて学園に近づけなかった私に対して、進んで学校との連絡にあたってくれた元幼稚園の先生方と高校の女性教員の淡々とした姿勢には、心からの感謝と敬意を表したい。やはり、度々の困難な時期を乗り越えてきた盈進の教員が身につけたタフさには、筋金が入っていたのである。
この盈進学園小史で、次々と教職員を襲う様々な困難が彼等を鍛え上げ、それが「盈進プロジェクト」を導き完成させる上での重要な背景を創ったという事情を御理解いただけたかと思う。

(第三部 学園小史 終わり)

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