第 一 章(4)劣悪な環境のまま生徒激減

残る大きな課題は、運動する場もない生徒の置かれている貧しい教育環境である。収容の限界をはるかに超えて生徒を入れたので、そのしわ寄せはモロに教育現場に響いていた。4間x5間の教室に60名入れると、横にならないと机の間を通れないし、10分の休みでは混雑している廊下から運動場に出るのも難しい、長い行列でトイレにも行けない、出席をとるだけで10分以上かかる、机間巡視ができないのでテストではカンニングもやりたい放題。遠い教室だと職員室の往復に時間を取られ、連続授業の教員は休みもとれない。

職場の空気が明るくなるにつれて、環境の改善が大きな課題になっていった。当然の要望ではあるが、可成りの支出をともなう。
理事長夫妻は困惑していた。組合活動が法的に守られている以上団体交渉には応じる義務があるし、そこでの合意は労使間の協約として法的に有効、理事会はこれを順守しなければならない。待遇が少しずつでも改善されていくということはそのまま、せっかく入ってきた授業料収入が目の前で減っていくことを意味する。しかも、ひどすぎる施設の問題を解決しなくては学校にならないことは、理事長夫妻にもよくわかっていた。困惑が不安に変わったのは、新入生の激減が始まってからである。

忘れもしないのは、一学年400名の定員を下回った翌年、新入生が一学年80名しか集まらなかったことである。20名4クラスで、木下ピーターという白人とのハーフの素直な生徒がいたので、この年のことはよく覚えている。壊滅的な落ち込みだった。
ヒゲは、学校を休校にして全教員に一人5-6校の中学校を担当させ軒並み訪問させるという東京でも初めての「学校訪問」制度を創設、教員による営業活動である。続いてこれも高校では初めての試みである「一芸での受験」等を次々に実施、ついには3月中ならいつでも受験、合格させる「五月雨受験」など、当時これほど多彩な募集対策を試みた学校は他になかったと思う。
本来なら経営者が進めるべき募集活動だが、丸山は全くの無為無策、ヒゲの指揮下で全教員が営業活動に走ることでかろうじて学園を維持していたのである。
「私学経営の基本は募集活動。生徒なしでの教育はないからだ。」とのヒゲの持論はそのとおりで、組合も“職場を守れ”というスローガンを掲げて全面的に募集活動に協力した。今考えると、この頃の学園に経営者は不在で、実質的な学校運営はヒゲと教職員で担当していたのである。80名の翌年は180名、次が200名と徐々に回復していったが、学則定員の400名に届く展望は持てなかった。

劣悪な施設状況は全く手つかずのまま生徒の激減期を迎えたので、生徒急増期にいくらかでも教育環境の整備に手を付けた学校との学校間格差が際立っていった。その格差も、直接募集に響いたのである。教育投資を放棄していたツケが一気に回ってきたと言って良い。水洗トイレの有無だけを取り上げても、軒並み文明国の学校がある中で、進んで発展途上国である学校に行きたがる生徒は少ないのである。

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