脊椎を傷め、ベッドで横になっていたが、彼はこの訪問を大変喜んでくれた。
施設見学、読書を通じて木造低層主体のキャンパスを入間市に建設するという盈進プロジェクトに至った経過を説明する。施設見学で近代建築の学校に失望したが、日土小学校の見学を機に木造低層主体のキャンパスを考え、南部イングランドのパブリック・スクールで、敷地は広ければ広いほど良い事を肝に銘じたこと、入間の土地はまだ開発許可を得ていない、これから申請する段階だということ、安井に準備活動での提案を拒否され、建築家探しに行き詰まって、伝統的な手法を取るのに協力してくれそうな棟梁探しをしてきたこと、偶々著書を通じて、アレグザンダーが施主と建築家の協議で事を進めるという伝統的な手法を取ろうとしているのを知り、この点で考え方を共有出来るのではないかと期待してここを訪ねたのだと話した。
学園の教育理念、自由な環境の下で個性をのびのびと育てたいという方針については、現在行っている「個性学習」を紹介しながら詳しく話し、彼は、幾つか質問しつつ興味を持って聞いてくれた。話しているうちに、建築について彼が考えを共有していることがはっきり確認できた。
建築家は信用しないが、職人には敬意を払うと言う。建築家は自分がそうだと言えば建築家になれるが、職人は周囲が認めなければ職人ではない。俺は職人だと言うだけではダメなのだ。芸術家と職人についても同じことが言える。自称建築家や自称芸術家が多過ぎる。誰のために、誰を満足させるために仕事をしているのか。はっきりしているのは、使用者が喜んで使うのでなければ、職人の仕事は成り立たないことである。
昔、大工は、施主と協議しながら、施主の望む家を作っていた。施主との協議が仕事であり、施主との協議が設計作業そのものだったのである。使用者が納得し満足するものをつくらなければ仕事にならないという意味でも、大工、棟梁は職人だった。
施主抜きで、建築家が施主の制約からも自由になり、思うがままに自分の主観的なイメージで設計を進めるようになったのは、近代建築が成立してからのことである。アレグザンダーは、昔ながらの、施主との相談を続けながら、設計から施工に至る全過程に責任を持ちたいと述べていた。彼が言う、アーキテクト・ビルダーである。それが、理想だと言う。同感だった。
建築家が、昔の大工、棟梁と違って施工と完全に切れてしまったのは、近代建築の宿命だったが、今の建築家がそれを充分自覚しているとは思えない。アーキテクト・ビルダーは、そのままで、近代建築及び近代建築家への批判になっている。
「盈進プロジェクト」の設計を引き受けてくれるかと聞くと、「喜んで引き受けたい。」と即答してくれた。探し求めてきた建築家に出会ったのである。
何か希望はあるかと聞かれたとき、「ライトのような学校が欲しい。」と説明抜きで話したが、英語がよく話せなかったので、今思うと充分意図を伝えられなかったのかもしれない。
新しい学校には、ライトの住宅で経験したような「どこか覚えのある懐かしい空間がほしい。」ということだったのである。
4月の来日を約束して、バークレーを離れ帰国した。
帰国してすぐ、安井には、アレグザンダーとの協議で、設計協力の話は無理だったと伝えた。答えを予想していたようで即座に了承、安井との関係は終わった。
理事会は、アレグザンダーの起用を正式に承認した。
全教職員に、ピーター・ブレイクの「近代建築の失敗」とクリストファー・アレグザンダーの「オレゴン大学の実験」(いずれも鹿島選書)を配布した。ピーター・ブレイクは、近代合理主義が既にその役割を終えているのではないかと示唆しており、アレグザンダーの著書は、「使用者参加の原理」を具体的な實例に即して示している。機能主義重視の近代建築によるコンクリートの学校に代わり、日本の伝統的な建築資材である木を使って木造低層主体の新キャンパスを建設するという方針について、教職員の理解を求めたのである。
特定の日本人の建築家から選ぶのであれば、個々人の好みが表面化し、まず一致するのは望めないが、誰も知らない外国人の建築家では、好きも嫌いもない。合同教職員会では、新キャンパスの設計者にアレグザンダーを起用するという理事会の提案が、異議なく了承された。
「第 三 章 アレグザンダーと設計契約 - 小さな美しい村を創る(3)「設計契約の締結―小さな美しい村を創る」へ
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