二人の職人(2) 最高の文化遺産、四面黒漆喰の列柱と大講堂の内装

フジタの依頼でプロジェクトに参加していた石黒重治は、キャンパスの工事で一部の左官仕事を引き受けていたが、私との直接の接触はなかった。初めて会ったのは、東京都下、東村山市の鰻屋である。当時七十歳を越えていた小柄で地味な年寄りで、特に際だった印象はない。話好きでないのはすぐ分かったが、時折りボソボソ呟くのを聞いているうちに、どうも大変な職人らしいと思い始めた。これから頼もうとしている仕事の内容を説明していると、目つきが違ってきたのだ。
大講堂の内装として、柱、梁、天井、壁面のすべてを漆喰で仕上げたい。特に、回廊の列柱は、四面黒漆喰にするというのが、依頼の内容である。

フジタは当初から、内装について、ペンキの吹付け仕上げを主張していた。ゼネコンの大量生産方式の施工に、優れた職人仕事の入る余地はないのだ。黒漆喰仕上げの知識はあっても、それができる職人などもちろんいない。
会津の喜多方など蔵の多い地方の町には、正面の壁を黒漆喰で仕上げた蔵が残っている。しかし、今、そのような仕上げを依頼する顧客はいない。黒漆喰の仕事が無いのである。仕事がなければ、それを手がける職人も育たない。このような事情で、伝統的な職人技術は、次々と姿を消していったのである。
大講堂内装の漆喰仕上げという日本の伝統を受け継ぐ重要な仕事を、ペンキの吹き付けで代えることはできない。フジタの提案は断り、開校後に左官屋を探すことにし、この内装仕上げの費用を翌年度の予算にを計上した上で延期ということにする。そこで、石黒との会合を迎えたのである。

プロテスタントの教会はつくらない

1985年4月に東野原高校が開校した時、大講堂の内装は白一色の仮塗装だった。これを漆喰仕上げの本塗装にするというのが依頼の内容だ。赤と黒を基調にした躍動感のあるパタンの壁面、薄紫の梁と天井、特に重要なのが、立ち並ぶ四面黒漆喰の列柱である。喜多方などの蔵でも黒漆喰は表側だけであって、四面というのはない。それに足場を使っても困難な天井の漆喰も考えると、これらをすべて手仕事で仕上げるというのは、高度な技術を必要とするだけでなく、気が遠くなるような仕事量を抱え込むことになる。
仮塗装ではあるが、清楚でシンとしたきびしい雰囲気を持つ白一色の大空間には、それなりの魅力があった。理事、教職員、生徒にも好評で、なんでこれに、赤や黒の内装を施す必要があるのかとの疑問を持つ者は少なくなかった。白木文化の伝統は根強く残っていて、開校時の時の白一色の空間は日本人好みだったのだ。

この問題は、大講堂が独立した単体の建築ではなくキャンパスの一部だというところにある。最も重要な課題は、キャンパス全体としての“調和”である。この学校の施設全体に見られる際立った特徴の一つは、豊富な装飾だ。白と黒の市松模様の正面を持つ正門、管理棟ファザードのなまこ壁、広場からピンクのダイアのパタンで正面を飾ったカフェテリアを望む景観は、白木文化の対極に位置する。それに、大講堂の外装は、柱が黒で壁面はすべて緑である。これが、中に入ると白一色の白木文化では、それだけでキャンパス全体の調和が崩れてしまう。乱暴なたとえだが、中国の装飾文化の影響を色濃く残す平安朝末期の寺社の境内に、中世に成立した簡素で無装飾な茶室を唐突に持ち込むアンバランスといって良いかと思う。
アレグザンダーは、「プロテスタントの教会を作るのではない。高校生には、もっと活き活きした空間がふさわしいのだ。」と、大講堂の内装工事がすむまでキャンパスは未完成であることを強調していた。
“全体の調和”などに何の関心心もない一部の理事が、この内装工事に反対したのは予想通りだった。彼らは、このキャンパスの持つ意味などは考えようともせず、すでに十億円の無駄遣い?をしているとの非難を繰り返していたが、その上さらに不要な内装工事など論外だと強硬な姿勢を変えなかった。
しかし、彼らも参加しているこれまでの理事会で、大講堂の内装工事は確認されており、その上そのための予算も承認されている。彼らも、自分らが参加している理事会で同意しているのでは反対という訳にいかなくなり、結局は認めざるを得なかった。彼らに気兼ねしていた清水理事長もようやく実施に踏み切ったのは、開校の年の初夏であった。
それから左官探しを始めたのだが、黒漆喰と聞くだけで「それは無理だ。できる左官など探しても無駄。」との応対に疲れ切っていた。その時、美術科教員の鶴巻豊が石黒を推薦してくれたのである。

まともな左官仕事はひとつもなかった

「今どき、黒漆喰をちゃんとやれる左官は、まずいねーな。」機嫌よくビールを空けながら、石黒は断言していた。それまでの職人、棟梁らの反応を経験していたので、この断言にはリアリティーがあった。優れた職人、棟梁が多いと言われる埼玉県川越市周辺から始めて、心当たりの建設業者を歴訪し、関西まで手を広げたが、いない。大講堂の大空間の内装をすべて手仕事の漆喰で仕上げるというだけでも気違い沙汰なのに、これに黒漆喰となると論外だということだったのである。
今、目の前にいる冴えない年寄りが、あるいは探し続けてきた左官なのではないか。「今どき、まずいねーな。」と言うのも、自分ならやれるという意味だろう。奇跡的な幸運に出会ったのかもしれない。
続いて、ポツンと漏らした石黒の一言には、胸を衝かれる思いをした。
「先生ねー。戦後この方、まともな左官仕事は、ただの一つもなかったよ。」
土間や、木造住宅のモルタル仕事ばかりで、腕の振るいようがなかった、というのである。
「本当に情けない思いをしてきたよ。」

現場を見て返事をするということでその日は別れた。この時点ですでに、石黒は一もニもなく引き受けることに決めていたのであろう。
二、三日後、現場を訪ねてきた。物も言わず、何時間も大講堂の中を歩き回っていた。天から降ってきた幸運を、一人かみしめていたのだと言う。普通なら圧倒されてしまう膨大な仕事量も、彼にはむしろやりがいを感じさせてくれたとのことだった。
「先生、私に任せて下さい。この歳になって、こんな仕事が来るとは思いませんでした。最高の仕事を約束しますよ。この仕事が終わったら、もう、いつ死んでもえーよ。」
石黒の意気込みは予想を越えたものだった。凄みを感じた。生涯で最高の仕事をする、それができればいつ死んでも良いというのである。

毎日、大講堂に足を運び、手書きの見積書を持ってきた。管理費千二百万円というのがわからなかった。何々一式などというよくある詳細、根拠とも不明の項目はなく、実際にかかる費用だけをきちんと計上している。しかし、普通の工事の見積もりで、全体の二割近くなるこのような多額の管理費が入っている例は見たことも聞いたこともない。
説明を聞くと、工期は一年を考えているが、その間、生徒はもちろん、たとえ理事長、校長であろうと一切大講堂は立ち入り禁止にする。埃は、この仕事の最大の敵なのだ。人の入るのを防ぐ為に、そのための「防衛費」として常駐の警備員をおくのは不可欠だと言うのである。これを認めてくれなければ仕事は引き受けないと、強硬である。埃を嫌う仕事であるとは承知していたので、そこまでこの仕事を大切にしてくれるのは嬉しかったが、予想もしなかった「防衛費」には参った。
完成まで大講堂の使用は禁止することを、全校に徹底させる、舞台の袖にある小音楽堂への通路の入り口も含めて六箇所の扉には常時鍵をかけておき誰も入らせないと誓約し、ようやく「防衛費」を削除してもらった。

舞台に向かってホール一階の両側と後は、列柱を利用した可動間仕切りで教室のスペースになっている。石黒は、この中の池に面した教室スペースに工事関係の資材、道具とともに、鍋、釜、ガス・コンロから食器、寝具までを運び込んだ。
大工の住吉に接していたので、頑固で人の意表をつく職人の言動には慣れていたが、石黒が軽トラで次々に生活用品を運んでくるのには目を見張った。時間を有効に使いたいし、生活のすべてを仕事に集中するので、この一年間は大講堂で暮らすことにしたと言うのである。学校管理の上からも法令上も、大講堂での寝泊まりなど許されないが、違法を承知で目をつぶることにした。「防衛費」といい、この一年間の大講堂暮らしといい、彼の仕事への熱意は理解できたので、それに応えることが何よりも重要だと考えたからだ。
その後、完成までの一年間、時折り所用で帰宅する以外、彼は大講堂で一人暮らしを続けた。冬になると、エア・コンの暖房装置がない大講堂は、身体の芯まで冷え込む。自分の周りに幾つもの石油ストーブを巡らせていたが、それでも冬の厳しい寒さは、年寄りにはかなりこたえたに違いない。食事の支度も片付けも、すべて一人でまかなっていた。
人はこれを、大変な苦労できつい毎日だったと思うだろうが、そう見るのは、後に彼が語ってくれたことによれば、全くの見当違いである。傍目には、“よくまあ、この年寄りが大講堂の一人暮らしに耐えて・・・・・”と、誰もが考える。しかし、生涯で最後のまたとないやりがいのある仕事に囲まれて毎日を現場で過ごすのは、石黒に取ってこれ以上望めない幸せな一年だったと述懐していた。

松崎・長八美術館の土佐漆喰

夏の終わり頃のこと、偶々現場の立ち話で、静岡県西伊豆の松崎にある長八美術館のことを紹介した。この建築が広く世に知られているのは、そこの土佐漆喰の仕上げが見事だからである。日本左官工業組合の面子にかけての仕事で、日本最高の伝統職人芸が見られると、建築家の間では高い評価を得ていると話した。
石黒は、長八のことを知らなかったとのことで、ただ黙って聞いていた。今でも優れた左官と彼らの伝統的な仕事があることを伝え、精一杯腕を振るっていい仕事を残してほしいと激励するつもりだったのだ。
秋口のある日、大講堂を訪れると、仕事を中断し足場から降りて、ニコニコしながら、珍しく彼の方から話しかけてきた。
「先生、こないだね、長八に行ってきましたよ。」と言うのである。見学を勧めたわけでもないし、彼がわざわざ松崎まで出かけるとは考えもしなかった。
「どうでした?建築家の間で評判になるだけあって、見事な仕上げだったでしょう。」
「先生ねえ。あらー大した仕事じゃないよ。先生が言うからさ、わざわざ出かけてきたけど、がっかりしたね。大した仕事じゃない。」
石黒はいつになく機嫌がよく、殊の外嬉しそうだった。
長八美術館の漆喰仕上げを絶賛する建築家や関わった職人を批判する姿勢ではなかった。彼の腕のほうが上だという自慢もなかった。彼は、評論家ではない。傲慢とも無縁だ。
長八の話を聞いてから、一人の職人、左官としてずっと気になっていることがあったのだ。もしや自分の手が到底届かないような仕事が実際にあるのだろうかという不安に悩まされていたのだ。それで、松崎へ出かけた。
直接自分の目で見て、まず、その仕事が自分の手の届かないようなものではないのを確認できて、心からホッとしたのである。それを確かめた嬉しさが、彼のさわやかな表情にありありと伺えた。夏から続いていたプレッシャーから解放されたのだ。それに、自分の仕事もたいしたことはないにせよ、松崎の漆喰仕上げも自分とおつかつではないか。
懸念が杞憂に終わった喜びを抑えきれず、それを私に伝えたかったのだ。今の日本で最高の評価を得ている仕事が自分の手の届かないものではないと確認できたのだから、後は自分のやり方で思う存分腕を振るえばよいだけだ。
「がっかりしたね」には、つい負けず嫌いの職人気質が出ていて、やや率直さを欠いている。「ホッとしたね」が、本音に近いと思う。

九時間かけて艶を出す–黒漆喰のコテ押さえ

黒漆喰仕上げの最後の仕事は、単調なコテ押さえの繰り返しである。艶のない表面でコテを往復させる。一平方メートルあたり休みなく八時間から九時間この動作を繰り返していくと、ようやく、黒漆喰の生命である艶やかな輝きが現れるのだ。気の遠くなるような単調な仕事の連続なのである。蔵の外装としての黒漆喰仕上げが、普通は正面だけというのもうなずける。一面だけでも大変な手間がかかるのに、周囲四面をすべて黒漆喰などというのは普通考えられないのであって、この大講堂の列柱のように四面とも黒漆喰というのは、異例中の異例と言ってよい。彼は、依頼にしたがって、ただ黙々と仕事を続け、見事な黒漆喰の列柱を完成させた。

恐らく優れた職人に共通な特徴かと思うが、大工の住吉同様、石黒は伝統的な手法を継承しながら硬直した考え方とは無縁であった。最終仕上げに用いるコテであるが、多分金属製であろうと思っていた。戦前には、プラスチックという素材は存在していないからだ。特に黒漆喰という伝統工芸ともいうべき仕事の道具であれば、それに使う立派なあるいは特別なコテがあるのではないかと聞いてみたのだが、そのようなものはないと言う。そのようなものへのこだわりは、持たないのである。
素材や形を色々工夫して試してみて、自分で作ったプラスチックのコテが最適との結論を得たと言う。見せてもらったが、弾力に富むプラスチックの手製で軽く、いかにも使いやすそうだった。これなら長時間使っていても疲れないし、コテ押さえの目的にピタリだと言う。しばしば金属に代わる安物の素材として使われるプラスチックだが、目的にかなえばそれでよい。伝統的な手法に携わる職人なら馬鹿にしかねない素材だが、彼は平気で一向に気にしない。金属とは違う軽さと弾力性が、長時間のコテ押さえに向いていたのである。耐久性はないので、次々と作りながら最後までこの手製のコテを使い続けていた。「名人に定跡なし。」の好例であろう。

年末の慌ただしさで暫く顔を出せなかったので、大晦日の夜九時過ぎに現場へ行ってみた。いくら石黒でも年越しの夜は帰宅しているだろう、進行状況だけ見てこようと思っていたのだが、驚いたことに、壁面の足場に乗って仕事をしていたのである。誰もいないキャンパスの大講堂の中で、一人黙々とコテを動かしている光景は、異様だった。「暮れも正月もない。」というが、人生の終わり近くに最高の仕事をすることしか念頭になかった石黒にとっては、年越しなどどうでも良かった。仕事をしていることだけが無上の楽しみだったと言う。
手を休めてお茶を淹れてくれた。「大晦日で家に帰らないのか。」などという無意味な質問はしなかった。「明日は元旦なのにたいへんですね。」とも言わなかった。彼の考えていることはわかっていたからである。
「ここだけは片付けておきたいんでね。除夜の鐘は、仕事をしながら聞きますよ。」と、又足場に登っていった。

一年の歳月が流れ、すべての漆喰仕上げが完成した。時に長男の方も手伝っていたが、石黒一人の仕事と言って良い。大講堂の見上げる大天井、梁、壁面は黒漆喰の列柱とともにすべて彼の手仕事である。足場が外されて、漆喰仕上げの全貌が姿を現した。彼が日本に何人といない卓越した左官であることは、この大講堂の壮大な空間を埋め尽くしている漆喰仕上げに接すれば誰もが確認できる。
一人の年寄りが、一年かけて思う存分腕を振るったこの壮麗な漆喰仕上げは、東野のキャンパスで唯一の職人仕事であるとともに、戦後の日本の最高の文化遺産の一つである。

(第二部 各論 終わり)

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